不確実性を空気で処理する社会
──コロナ禍が露出させた日本的意思決定構造
要約
コロナ禍は例外ではなく、日本社会に埋め込まれた意思決定構造を露出させた出来事だった。日本は他国より異常なのではなく、不確実性が生死や責任に関わる局面で「制度」ではなく「空気」によって処理されやすく、一度そのモードに入ると戻りにくい特徴を持つ。法的強制ではなく自粛要請と同調圧力が機能し、専門知は判断材料ではなく正当化装置として消費される。ドイツや韓国、米国では不確実性や対立が制度や政治過程に配置され、全体同調が抑制される。日本で暴走を防ぐには文化改変ではなく、責任主体の可視化や判断過程の記録化など、空気が肩代わりする前に制度が介入する緩衝設計が必要だが、完全な回避は難しい。
コロナ禍が終わったにもかかわらず、この問題について考える。あの数年間が単なる例外ではなく、日本社会に深く埋め込まれた構造を一時的に露出させた出来事だったように思えるからだ。直感的には、そこに戦前の日本と驚くほど似た手触りを感じる。
ただし、この直感が安易な日本特殊論に滑り落ちないためには、公平な比較と留保が必要になる。他国と比べて、本当に日本はこの傾向が強いのか?
結論を先に述べるなら、「日本だけが異常」なのではない。しかし、同じ条件がそろったとき、日本社会はこのモードに入りやすく、しかも一度入ると戻りにくい、という特徴はある。問題は国民性や知能ではなく、<不確実性をどう処理するか>という文化と制度の組み合わせにある。¹
非常時の意思決定様式を見れば、その差は浮かび上がる。
日本では、法的強制よりも「要請」や「自粛」が前面に出る。形式上は任意であっても、実質的な制裁は社会が担う。同調圧力がルールの代替として機能し、逸脱は違法ではなく「不適切」として処理される。この過程で専門家は、判断主体ではなく、皆が同じ行動をとるための正当化装置として消費されやすい。専門知は意思決定を支えるためではなく、空気を一方向に揃えるために動員される。²
対照的に、ドイツなどでは、非常時であっても権限と責任の所在が制度的に明文化されやすい。専門家の役割は助言に限定され、最終判断の責任は政治が引き受ける。不確実性は「制度に押し込められ」、社会が直接それを処理しなくて済む構造が用意される。もちろん、ドイツでも専門家批判や反対デモは起きたし、混乱がなかったわけではない。それでも、制度が一定のブレーキとして機能し、社会全体が単一の空気に飲み込まれる事態は相対的に抑えられた。³
(なお、ドイツの例を挙げるとナチスの歴史が持ち出されやすいが、ここで問題にしているのはイデオロギーや過去の罪責ではない。本稿が比較しているのは、危機時に不確実性と責任を「制度が引き受けるのか、それとも社会の空気に委ねるのか」という運用構造の差である。)
韓国は、同じ東アジアでも日本と異なる振る舞いを示した。韓国社会にも強い集団主義や同調圧力は存在するが、対立は内部で溶かされるよりも、街頭・メディア・政治過程に外在化されやすい。専門家や政府は激しく批判されるが、その分、責任主体は可視化される。静かな合意が形成される日本に比べ、韓国は騒々しいが、意思決定の所在は見えやすい。この差は、文化というよりも、不確実性と対立をどこに配置するかという制度的・社会的設計の違いとして理解できる。
私が住んでいるアメリカでは分断が激しく、別の問題を抱えている。しかしその分、反対意見の存在が制度的に前提とされ、全体同調が起きにくい。党派ごとの集団同調や誤情報の拡散はあったが、少なくとも一つの空気が社会全体を覆い尽くす構図にはなりにくい。「殴られる」科学者は出るが、別の言論空間が必ず残る。
日本の特徴は、不確実性の扱い方にある。日本は曖昧さ耐性が高いと言われがちだが、それは日常的で非致死的な曖昧さに限った話だ。生死、責任、失敗が絡む局面になると、社会は一転して曖昧さを排除しにかかる。その際に動員されるのは制度ではなく空気であり、留保や確率論は「混乱を招くもの」として忌避される。結果として、専門知は本来の役割を果たす前に、道徳的に裁かれてしまう。⁴
この構造は、戦前日本で見られた意思決定様式と驚くほど同型だ。国家が直接命令するのではなく、社会が同調を強制する。誰も最終責任を引き受けず、逸脱者が「非国民」になる。これは単純なファシズムというより、責任主体を欠いた社会的自動運転に近い。他国にも非常時の暴走はあるが、日本ではこの自動運転があまりにも滑らかに作動する。
では、このような「次のあやまち」を、日本社会は回避できるのか?
理論上は可能だ。しかし、それは文化を変えることによってではない。日本社会が不確実性を空気で処理してしまう傾向は、長期にわたって安定化された社会的最適解の副作用であり、道徳的反省や啓蒙によって矯正できる性質のものではない。
回避が可能だとすれば、それはこの性格を前提とした上で、暴走が致命傷にならないよう制度的な緩衝材をあらかじめ組み込めた場合に限られるだろう。責任主体の強制的可視化、専門家の役割の限定、判断過程の記録化など、いずれも文化を改変する試みではなく、空気が判断を肩代わりする前に、制度が介入するための技術的な設計にすぎない。
それでもなお、完全な回避はおそらく不可能だ。同じ条件がそろえば、同じ型は再生される。だからこそ、コロナ禍で起きたことは例外ではない。原発、ワクチン、AI、気候変動、有事対応などの「未来の事故」は、すでに過去の形式で予告されている。
この構造が検証され、言語化されない限り、次の危機でも同じ光景を見ることになるだろう。コロナの話題を蒸し返したのは、希望を提示するためではない。繰り返される条件が、すでに隠される必要すらないほど明瞭だからだ。
脚注
1
<不確実性回避の文化差>
日本の不確実性回避指数は92と非常に高く、韓国(85)と並んで上位に位置し、ドイツ(65)、アメリカ(46)よりも明確に高い。これは生死や責任が絡む不確実性に対して、日本社会が強い回避傾向を示すことを定量的に示唆する。
Geert Hofstede, Cultures and Organizations: Software of the Mind;Hofstede (Insights公式データ)
2
<日本のコロナ対応と同調圧力>
日本はロックダウンではなく自粛要請を中心に対応し、高い遵守率を示したが、その多くは法的強制ではなく社会的圧力によって維持されたと分析されている。
New York Times (2022) “Japan’s Secret to Taming the Coronavirus: Peer Pressure”;Frontiers in Public Health (2022)。
3
<ドイツの制度対応と抗議運動>
ドイツでは厳格な法的措置と責任明文化が行われる一方、Querdenken運動など反ロックダウン抗議も発生。制度が社会的暴走のブレーキとして機能した事例として分析されている。
“COVID-19 protests in Germany”, Wikipedia;Taylor & Francis, anti-containment protests研究。
4
<「空気」による意思決定>
危機時に同調圧力が急激に増幅され、合理的留保が排除される現象は、山本七平の指摘した「空気」の支配構造と整合する。
(山本七平『「空気」の研究』)
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