自由意志は存在しない---すべての人間は操り人形である
自由意志は存在しない
私たちは自分を行為の作者だと感じている。
熟慮し、反省し、決断していると信じている。
だが、自由意志の感覚があることは、自由意志の証拠にはならない。
自分が決めているという感覚があることも、自由意志があることの証明にはならない。
それは、脳があとから与える説明にすぎない。
1980年代初頭、ベンジャミン・リベットは、被験者が「(何かをしようと)決めた」と自覚する数百ミリ秒前に、行為を予測する神経活動が始まっていることを報告した[1]。
さらにその後の研究では、被験者が意図を自覚する数秒前から、左右どちらのボタンを押すかを予測できる脳活動パターンが観察された[2]。
これらの結果は、かつて自由意志を決定的に否定する証拠だと受け取られた。だが、その解釈は単純すぎた。
その後の研究によれば、いわゆる準備電位とは、無意識のどこかで「決定」が下された痕跡ではなく、脳内で常に起きている小さな活動のゆらぎが、ある閾値に達するまで積み重なった結果である可能性が高い[3]。
とはいえ、この修正をしたところで、自由意志があることにはならない。
神経過程が決定論的に進もうと、確率的に進もうと、意識的な意図が原因の起点でないことに変わりはない。
意図は開始ではなく、事後報告にすぎない。
もし私たちの行為がすべて過去の原因によって決まっているのなら、強い意味での自由意志は成り立たない。
では、そこに偶然や神経的なゆらぎが入り込めば自由は生まれるのか。そうではない。偶然は自由の別名ではない。
サイコロの目がどれほど予測不能でも、それを「自ら選んだ」とは言わない。
問題の核心は、決定論か偶然かではなく、「自分が本当に原因になっているのか」という点にある。
もし自由意志があるというのなら、それは自分の欲望や衝動、思考の出どころそのものでなければならない。
だが、そのような源はどこにも見当たらない。
III. 選べない思考
あなたは、「次に脳裏に浮かぶ思考」を、それが現れる前に、言い当てることができるだろうか。できないはずだ。
思考はただ生起する。どのような思考が浮かぶかは、それがすでに浮かんだ後でしかわからない[4]。
意図も同じである。「自分が意志している」という感覚は、すでに進行していた神経過程の上に後付けされる解釈にすぎない。
私たちは思考の作者ではない。それを観測しているだけなのだ。
リベットは一つの逃げ道を提示した。自由に行為を開始することはできなくても、最後の瞬間にそれを拒否することはできるのではないか――彼はこれを「自由否定」と呼んだ[1]。
しかしこれは問題の解決にならない。
もし行為を始めるには、その前に脳の活動が必要だというなら、行為をやめる場合も同じである。
「決める」ことが因果の流れの中で起きるのなら、「やめる」こともまたその流れの中で起きる。
開始だけが因果に縛られ、拒否だけが自由になる、ということはない。
言葉を変えても、自由が戻るわけではないのだ。
自由意志は実験室レベルの単純な運動では否定されても、職業選択や結婚、犯罪といった複雑な決断ではなお成立する、と主張する者もいる。
しかしこの区別は成り立たない。
複雑な行為は、より単純な神経過程の積み重ねによって作られる。ミクロレベルで作者性がないなら、それがマクロレベルで突然出現することはないはずだ。
自由がゼロの層をいくら重ねても、自由は生まれない。
現代の神経科学は、もう少し広い見方を示している。
カール・フリストンの自由エネルギー原理によれば、生き物は「予想が外れすぎないように」行動している[5]。
脳は世界についての仮説を常に立て、そのズレを小さくするように動く。
この立場から見ると、行為とは「自由な選択」というより、状況の中で最も辻褄の合う方向へ動くことに近い。
私たちが「欲望」と呼ぶものは、あらかじめ持っている期待であり、
「決定」と呼ぶものは、その期待を満たす方法を選ぶ過程であり、
「意図」と呼ぶものは、すでに進みつつある流れをあとからまとめた説明にすぎない。
「自分が選んだ」という物語は、行動を理解しやすくするための整理である。
それが行為を始めているわけではない。
VII. 感覚は存在証明にならない
最もよくある反論はこうだ。
「しかし私は自由だと感じる。」
だが感覚は証拠ではない。
地球は静止しているように感じられるが、そうではない。
太陽が空を移動しているように感じられるが、そうではない。
自由意志が経験されるから存在すると主張するのは、気配を感じたから幽霊が実在すると言うのに等しい。
VIII. 両立論と再定義
ダニエル・デネットらは、自由意志が「根源的な源」である必要はないと考える[6]。
行為が外的強制ではなく、その人の性格や信念、欲望から生じているなら、それで十分だという立場である。
この定義であれば、賞賛や非難といった社会的実践は維持できるだろう。
だがそれは、「自分が自分の行為の最終的な原因である」ということを意味しない。
しかもこの立場は、多くの人が暗黙に信じているより強い自由――同一の状況でも別様に選べたはずだ、という自由――をあらかじめ放棄している。
言葉としての「自由」は残る。
しかし因果を超える自由は戻らない。
私たちは、自分で選んだわけではない原因に形作られ、自分で決めたわけではない条件のもとで動き、自分で生み出したわけではない思考を次々に生じさせる――そのような動きこそ、私たちの正体である。
あるのは因果と確率、推論と物語。
「私」とは、何かを支配している存在ではない。
自由意志は、存在しない。
脚注
[1] Benjamin Libet et al. (1983). Time of conscious intention to act in relation to onset of cerebral activity (readiness-potential). Brain 106:623–642.
[2] Soon CS et al. (2008). Unconscious determinants of free decisions in the human brain. Nature Neuroscience 11:543–545.
[3] Schurger A, Sitt JD, Dehaene S. (2012). An accumulator model for spontaneous neural activity prior to self-initiated movement. PNAS 109:E2904–E2913.
[4] Sam Harris (2012). Free Will. Free Press.
[5] Karl Friston (2010). The free-energy principle: a unified brain theory? Nature Reviews Neuroscience 11:127–138.
[6] Daniel Dennett (2003). Freedom Evolves. Viking Press.
以下は、この記事のYoutube版です。
This website uses cookies.