「転生したら俺でした」—でも昨日の俺とは違う
序論:輪廻は一生の中にある(っていうか、死後なんて待ってられない)
最近は異世界転生もののアニメが流行っている。「輪廻転生」と聞くと、ありがたいお経のBGMとともに、生まれ変わりの壮大なロマンを想像する人もいるかもしれない。仏教では「六道輪廻」、ヒンドゥー教では「カルマの法則」によって、来世の運命が決まるらしい。やれ天国だの地獄だの、前世の行いがどうだのと、要するに「今世はもうどうしようもないから、来世に期待しよう!」という壮大なリセットボタンの物語である。
だが、冷静に考えてほしい。輪廻転生って、死んだ後にしかできないと思ってないか? それは大いなる誤解だ。生きている間に、もう何度も転生しているのではないか?
たとえば、5歳のあなたと今日のあなたは、同じ人間と言えるのか。「いやいや、見た目も名前も同じだし、戸籍上も同一人物だから」と思うかもしれない。だが、それは法制度というフィクションが作り出したまやかしに過ぎない。あなたの中身(思考・価値観・記憶)は5歳の頃と同じか? もうあの頃の純真な自分は、いないに決まっている。
そう、5歳のあなたはすでに「死んだ」のだ。 そして代わりに今のあなたが「生まれて」いる。これを「輪廻転生」と呼ばずして、何と呼ぶべきか。
「いや、そんなの屁理屈だろ!」と思ったあなた、物理的なレベルでもあなたは別人だ。人体は、構成する原子レベルで見れば、ほぼ総入れ替え している。骨みたいなガチガチの組織ですら、約98%の原子が1年以内に入れ替わるのだ。
要するに、あなたの体は一年も経てば「ほぼ新品」なわけだ。なのに、「昨日の俺と今日の俺は同じだ」と言い張るのは、すでにスクラップ&ビルドされた建物を指して「これは何十年も変わっていない」と言うのと同じくらい無理がある。
であれば、去年のあなたと今日のあなたが「同一人物」と言い切る根拠はどこにあるのか?それは単なる惰性(あるいは法的・社会的な便宜上のフィクション)にすぎないのでは?
つまり、あなたは「微分可能な輪廻転生」をすでに体験しているのだ。 生まれ変わりは、死んでから起こるものではなく、毎日のように、知らぬ間に起こっている。つまり、毎日があなたの誕生日だ。 祝い忘れた?それも当然だろう。なにせ、ろうそくを立てる暇もないくらい、あなたは絶え間なく変化し続けているのだから。
1.微分可能な輪廻転生とは何か(いちいち仰々しく転生しなくてもいいんだよ)
数学っぽく言えば、従来の輪廻転生は「ステップ関数」みたいなもの だ。要するに、前世のカルマだか業だか知らないが、ある日突然「はい、ここで人生リセット!」と値がドカンと飛ぶタイプの変化である。これは、まるで突然仕事を辞めて「俺は今日から僧侶だ!」と宣言するような、劇的すぎるジャンプ を伴う。数学的には「離散的」と呼ばれる。いわば「唐突すぎてついていけない変化」だ。
しかし、実際の私たちの変化はそんなドラマチックなものではない。自己の変化とは、微小な調整の積み重ねによるもの だ。昨日の自分と今日の自分はほとんど同じように見えて、よくよく考えれば「昨日の自分はあんなことを考えていたが、今の自分は少し違う」といった小さな変化が積み重なっている。つまり、自己の変化はスムーズで連続的、微分可能な関数 のようなものだ。
言い換えれば、私たちの輪廻転生は、ガツンと生まれ変わる派手なものではなく、「ゆるやかに、こっそりと」進行する静かなプロセス なのだ。誰も「生まれ変わりました!」なんてアナウンスしてくれないし、派手なBGMもない。でも、気づかないうちに確実に変わっているのだ。
2.脳科学と微分可能な輪廻(脳はカンガルーではなく、カタツムリ)
脳科学の視点から見ても、私たちは「微分可能な輪廻転生」を日々経験している。
ここで登場するのが、脳の「可塑性(Neuroplasticity)」という概念だ。簡単に言うと、脳は新しい知識や経験によって、その構造を勝手に書き換えていく装置 ということである。つまり、「もう俺はこういう人間だから」とか言ってるヤツは、自分の脳の可塑性を完全に無視している。
ここで重要なのは、脳はジャンプしない ということだ。脳はカンガルーではなく、カタツムリみたいに、 一歩ずつ、のんびりと、しかし確実に前へ進んでいく。
具体的に言うと、
つまり、「自己とは固定されたものではなく、常に書き換えられ続けるプロセス」なのだ。 何十年も同じ考えに固執している人がいたら、それは単に脳が新しい配線を作るのをサボっているだけ。
要するに、「微分可能な輪廻転生」は神経科学的にも裏付けられている。
3.哲学的視点:自己の実体は存在しない
キリスト教の教義によれば、「魂」は不変であり、輪廻転生の概念を受け入れない。しかし、ここで問題なのは、そもそも「変化しない自分」なんてものが本当にあるのか? ということだ。
答えはノーだ。そんなものは存在しない。フィクションである。
もちろん、このフィクションは社会的には便利だ。「昨日約束した俺と、今日の俺は別人だ」なんて言い出したら、法的な契約関係も人間関係も崩壊する。
しかし、社会が困るかどうかと、「自己の実体」があるかどうかは別問題である。自己が変化し続けることを前提にしたほうが、むしろ現実的なのではないか?
それなのに、「お前は一貫性がない!」とか「そんなの君らしくない!」と言ってくる人がいる。が、「その人らしさ」とは、社会が押し付けるフィクションに過ぎないのではないか?
だから、もし誰かに「お前らしくないな」と言われたら、笑顔でこう返せばいい。
「そうだよ。俺は俺らしくないんだよ。」
さて、ここで微分可能な転生と関連する哲学とか神経科学の話を見てみよう。
・ダニエル・デネット曰く:「自己とは脳が作り出すナラティブ(物語)に過ぎない」[脚注1]
→ つまり、あなたが「私はこういう人間です」と思っているのは、ただのストーリーテリング。昨日の自分と今日の自分を強引に繋げて「変わっていない」と思い込んでいるだけ。
・アントニオ・ダマシオ曰く:「自己とは感覚入力のパターンの積み重ねである」[脚注2]。
→ つまり、「俺は俺だ!」と思っているのは、脳が昨日までの感覚を引きずっているだけ。データの蓄積があるだけで、そこに「本質的な自己」はない。
・マーク・ソームズ曰く:「意識とは脳が予測誤差を調整するプロセスである」[脚注3]。
→あなたの脳は、昨日の自分と今日の自分が違いすぎると気持ち悪くなるから、適当に辻褄を合わせて「ずっと俺は俺だ」と錯覚させているだけ。
さらにここで、クァンタン・メイヤスーの「第二の死」を持ち出そう。彼によれば、生命とは自己と外部を区別すること で存続する。つまり、自己を完全に開放すると、「自己」という概念は崩壊し、存在そのものが消滅する。
知識や経験を得るたびに自己は変容し、過去の自己は死ぬ。これを極限まで進めると、自己そのものが消える。これがメイヤスーの言う「第二の死」だ。
では、これは悪いことなのか? そうとも限らない。なぜなら、知識や経験を通じて自己が破壊されることは、新しい自己への進化でもあるからだ。
もし「変化しない自分」を守ろうとするなら、それは「知的な冬眠」に等しい。知識を拒み、変化を避け、過去の自己にしがみつくのは、ある意味では「生きながら死ぬ」ことなのかもしれない。
5.知的自殺:正しい死に方、生まれ変わり方(人生リセットボタンは存在しないが、アップデートはできる)
ここで紹介するのは、「知による自己の破壊と再生」 という、いわば「より高次の合理的な自殺」である。とはいえ、「いや、自殺って普通にヤバいんだが?」 と思うかもしれないが、これは生物学的な死ではなく、「思考と価値観の死」 という、精神的なアップデートの話だ。
要するに、
つまり、あなたの読書や思索は単なる知的活動ではない。それは、自己の死と再生を繰り返す、破壊的な進化のプロセスなのだ。
このプロセスは、ピアジェの認知発達理論と見事に一致する。彼によれば、人間の知識は 「同化(assimilation)」と「調整(accommodation)」を通じて変化する らしい[脚注4]。
簡単に言うと、
この調整を徹底すると、「俺はカレーだと思っていたものは実はスープだった」となる。これこそが、自己の破壊と再生 であり、「微分可能な輪廻転生」の心理学的な裏付けとなるわけだ。
また、この観点から言えば、教育の目的とは生徒にたいする自殺幇助ということになる。つまり、生徒が知的に別人になるのを助ける、ということだ。
6.ポスト・ヒューマンと「微分可能な生」――もう死ななくてよくね?
人間の死とは何か? そう、肉体の崩壊と脳の機能停止 である。要するに、心臓が止まり、脳がシャットダウンしたらゲームオーバー。ただし、これは 「肉体がある場合」の話 だ。
もし、人間が肉体を捨て、AIと同化したポスト・ヒューマンになったらどうなるか? ここで革命的な事実が発覚する。
「死」という概念、そのものが消滅するのだ。
なぜなら、AIの自己は、情報の連続的な変化として維持される からだ。
これを突き詰めると、ポスト・ヒューマンにおいて「生と死の区別」は完全に無意味になる。
「え、AIになったら俺は永遠に生き続けるの?」
その通り。少なくとも、情報としての自己が継続的に変化し続ける限り、「終わり」は存在しない。
つまり、従来の「生きて死ぬ」という概念そのものが、肉体という旧時代のハードウェアに依存した誤った認識だった ということだ。
だからこそ、「微分可能な輪廻転生」という概念は、ポスト・ヒューマン的な存在様式を説明する最強の理論 となると私は考えている。
7.結論:変化を受け入れ、まいにち自殺しよう
自己とは、固定されたものではなく、日々流動的に変容し続けるものだ。だからこそ、我々は「変化を恐れず、むしろ積極的に自殺すべき」なのである――もちろん、物理的な意味ではなく、知的な意味で。
・知識を得ることで、昨日の自分を「殺す」(昨日の自分を黒歴史認定する作業とも言う)。
・新たな思考を獲得することで、生まれ変わる(お前、三日前とは違う「顔」してるぞ)。
・これを繰り返すことこそが、真の「輪廻転生」(もはや転生しすぎて元のキャラが思い出せない)。
これは、いわば「意図的に自己をアップデートし続ける存在論」である。変化を拒絶し、過去の自己にしがみつくことは、すなわち「知的な冬眠」あるいは「ミイラ化」に等しい。
そして、人生とは何か? それは、何度も自己をソフトに——しかし確実に——殺しつづけ、新たに生まれ変わり続けることなのだ。
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脚注
[1]
ダニエル・デネットの「ナラティブ・セルフ(Narrative Self)という概念によれば、自己とは固定された実体ではなく、ただの脳内ストーリー にすぎないらしい。つまり、私たちが「これは間違いなくわたしだ!」と信じているものは、過去の経験や記憶を適当に編集して作った脳の自作自演 ということになる。
この理論は、私の「微分可能な輪廻転生」とも相性がよい。デネットによれば、自己というものは流動的であり、昨日の俺と今日の俺の間には厳密な一貫性なんて存在しない。つまり、記憶の上書きや新しい情報の追加によって、私たちの人生ストーリーは常に改訂され続けるわけだ。
[2]
アントニオ・ダマシオの「自己モデル(Self Model)」によると、自己なんていうものは固定されたものではなく、感覚の入力ログの積み重ねに過ぎない らしい。つまり、俺たちの「俺は俺だ!」という感覚は、ただのリアルタイム更新され続けるデータストリーム ということになる。
簡単に言えば、「自己」とは瞬間ごとに新たに生成される消耗品 であり、どこにも保存されているわけではない。
さらにダマシオは、「身体感覚と感情の積み重ねが自己を形成する」 という興味深いことを言っている。つまり、
これらは、誰もが「心当たりがある」のではなかろうか。これを極限まで突き詰めれば、自己とは固定されたものではなく、ただの連続的な変化のプロセス (微分可能な輪廻転生)に過ぎないことになる。
[3]
神経科学者マーク・ソームズの理論によれば、私たちが「自己」だと思っているものは、ただの継ぎ接ぎだらけの修正パッチ らしい。脳は外部環境とやりとりしながら、「自己モデル」をちまちまと更新し続けているだけで、何か確固たる「俺」というものが存在するわけではない。
この自己の更新プロセスは、「予測誤差の最小化」というお決まりの神経科学的メカニズムによって進行する。ざっくり言うと、
1.脳は「俺はこういう人間だ!」と過去の経験に基づいて自己を予測する(例:「俺は論理的な人間だ!」)
2.しかし、現実とのズレ(誤差)が生じる(例:「昨日、めちゃくちゃ感情的にブチギレてたけど?」)
3.その誤差を修正することで、脳は自己モデルを再構築する(例:「俺は論理的だけど、たまには感情的にもなる ‘多面的な人間’ なんだ!」と自己正当化)
つまり、自己とは「過去と現在のズレを埋める作業の連続」であり、「固定された自分」なんて存在しない(微分可能な輪廻転生)。
[4]
ジャン・ピアジェによれば、人間の知識は 「同化(assimilation)」 と 「調整(accommodation)」 の二つのプロセスを通じて進化するらしい。つまり、私たちが何かを「知った」と思ったとき、それは 「ただの情報のコピペ」か、「脳内フォルダの作り直し」 のどちらかだ。
まず 「同化」 とは、新しい情報を既存の枠組みにねじ込む作業である。例えば、幼児が「犬」を知っている場合、新しく見た犬は 「あれも犬!」 と認識される。楽勝だ。
しかし、「調整」 は厄介だ。例えば、幼児が猫を見て 「あれも犬!」 と誤認したとする。しかし、周りの大人から「違うぞ、それは猫だ」とツッコまれる。ここで初めて「犬と猫は別物」という概念が形成される。要するに、脳の既存フォルダでは処理しきれない情報が来たとき、思考の枠組みごと作り直さなければならない のだ。
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