エッセイ『ゲームという第二のVR—硬すぎる現実を、遊べる硬さまで再レンダリングする』

要約

人間が「現実」だと思い込んでいるものは、実は生存用に最適化された第一のVRである。人間は世界の真理を知るためではなく、ただ死なないために世界を見ている。しかもその表示は、かなり雑である。

ゲームは、その生存用VRが作った快苦という雑な代理評価関数を、遊びのために再利用する第二のVRである。だからゲームでは、完全な自由より、はっきり見えるルールや失敗条件のほうが気持ちいい。人間は、自由を与えられると急に何をしていいかわからなくなる生き物なのである。


 

この文章でいうVRとは、ゴーグルをつける機械のことではない。世界を、人間がなんとか扱える程度にまで雑に変換した表示形式のことである。劣化とは、価値が下がることではなく、情報を削って脳が処理しきれるサイズに落とす作業である。人間の脳は、元々そこまで高性能ではないので、仕方なくこうしている。

また、ここで主に念頭に置いているのは、目標や失敗、報酬が比較的はっきり見えるタイプのデジタルゲームである。もちろん、すべてのゲームがこの型に収まるわけではない。だが、なぜ人間がゲームに気持ちよさを感じるのかを考えるには、このわかりやすい型から始めた方が無難である。

遊びやゲームを「制約の中で一時的に目的を採用する行為」と見る議論は、すでにある。ゲームでは「勝つ」という目的をいったん本気で引き受けることで、その過程を楽しむ、という見方だ。ここで考えたいのは、その少し先にある話である。ゲームは単に目的をくれるわけではない。現実の硬さと、快苦という粗悪な代理評価関数を、遊べる硬さまで再構成する装置なのだ。

 

  1. ゲームは現実を正確にしない

ゲームは、現実を人間が気持ちよく操作できる程度に雑にする装置である。

ここでいう「雑」とは、情報を減らし、扱える粒度にするという意味である。現実の世界は細かすぎる。体力、疲労などは曖昧で、測りにくい。自分は疲れているのか、飽きているのか、現実ではよくわからない。人間は自分の状態表示すらまともにできない。

だがゲームでは、それがHPになる。成長は経験値になる。昨日より賢くなったのか、強くなったのか、現実では判断しにくい。だがゲームでは経験値が増え、レベルが上がり、新しい技を覚える。昨日より自分が少しマシになった気がする。

これは現実の再現ではない。現実の劣化である。だが、その劣化が気持ちいい。雑になったことで世界が操作可能になるからである。

つまりゲームの本質とは、現実を「なんとか動ける形」にまで落とすことにある。人間は、高解像度のままでは世界を扱いにくい生き物なのだ。

 

  1. 人間はすでに第一のVRを生きている

ゲームが現実をどう変えるかを考える前に、そもそも人間にとっての「現実」とは何かを見ておく必要がある。もっと言えば、人間が「これが現実だ」と思い込んでいるものが、どれだけ頼りないものなのかを、まず認めておいた方がいい。

人間は、現実そのものに触れていない。感覚器は世界の一部だけを拾い、脳はそれを補正し、削り、意味づける。見えている世界も、聞こえている世界も、記憶している世界も、本当の世界ではない。われわれが「現実」と呼ぶものは、すでに一度フィルタリングされた世界である。人間は本当の世界など認識できないし、仮に本当の世界があったとしても、それをそのまま表示する気など、脳は最初から持っていない。

ここで重要なのは、人間に表示される世界が、何のためにそのような形をしているのかである。人間の現実認識は、世界を正しく写すためにあるのではない。生き延びるという目的に利用できる形へ変換するためにある。危険を見つけ、報酬に向かい、損失から逃げる。つまり、人間の現実認識は、生存用VRである。

犬は犬のVR世界を生き、鳥は鳥のVR世界を生き、虫は虫のVR世界を生きる。生物は世界そのものではなく、自分の身体と関心に応じて切り出された操作画面を、世界と見なしつつ生きている。

ゲームは、この構造を人工的に作り直す。人間用の現実画面を、さらにゲーム用の画面へ再レンダリングする。世界を「敵」「報酬」「進行方向」として表示し直すのである。生存のためではなく、遊びのために。

  1. 快苦は、生存の代理表示である

第一のVRが生存用の表示画面だとしても、「生きる」という目的は大きすぎて、そのままでは行動に変換しにくい。

そこで生存は、快苦という代理表示へ圧縮される。

痛いものは避ける。気持ちいいものには近づく。怖いものから逃げる。達成感があるものを続ける。

快苦とは、生存そのものではない。生存を近似するために、身体が作った雑な表示である。

ここでゲームが出てくる。ゲームは、生存を直接助ける必要がない。ゲームをしても、あなたの寿命が延びるわけではない。むしろ縮むこともある。夜中に「あと一回だけ」と言いながら睡眠と健康を削る者など、現代ではごく普通の光景だ。

それでもゲームは気持ちいい。なぜならゲームは、生存用VRが作った快苦の代理表示に最適化しているからである。

第一のVRは、生存のために世界を表示する。第二のVRは、その表示の中にある快苦を、遊べる形で再構成する。だからゲームは第二のVRなのである。生存を助けるわけでもなく、むしろ邪魔をしているのに、快苦の信号だけは忠実に拾ってくれる。

 

  1. 現実は幻想だが、柔らかくはない

VRが見せるものが幻想だとしても、すべての幻想が同じ「柔らか」さを持つわけではない。

現実は幻想である。だが、硬い幻想である。

ここで言う「硬い」とは、主観に表示されるが、主観だけでは簡単に書き換えられないという意味である。たとえば重力は、主観だけでは消せない。痛みも、死も同じである。

だから現実は硬い。痛みは思想で消えない。重力は交渉に応じない。死はリセットボタンで取り消せない。

ここが第一VRと第二VRの違いである。現実という第一VRは、身体に深く縛られている。

ゲームという第二VRは、その硬さを消すのではなく、遊べる硬さまで変換する。体力はHPになる。成長は経験値になる。死はゲームオーバーになる。現実の硬さは消えていない。ただ、扱える形に変換されている。

ゲームは、硬すぎる現実を、快楽に耐える硬さまで劣化させるのである。

  1. 快楽には、少しだけ不快が必要である

ゲームは現実を完全に柔らかくするわけではない。何でもできる世界は、すぐにつまらなくなる。敵がいないゲームは自由に見えるが、すぐ飽きる。抵抗がないからである。

快楽には、適度な抵抗が必要なのだ。

ボタンを押せばジャンプする。だが、タイミングを間違えると穴に落ちて死ぬ。だが、やり直せる。

楽しさとは、単に安心して落ち着いている状態ではない。どこかに問題がある状態である。ただし、その問題解決は、簡単すぎても難しすぎてもいけない。

楽しい問題とは、少しだけ不快な問題である。あと少しで届きそうなのに届かない。この小さな不快が、次の一回を生む。

ゲームは、不快を挫折ではなく再挑戦へ変換する。ゲームの快楽は、快だけでできているのではなく、処理可能な不快でできている。ちょうどいい塩梅の苛立ちを、丁寧に設計して渡してくれるわけだ。

  1. ゲームでは世界が返事をする

スーパーマリオの世界は、この構造をわかりやすく見せる。右へ進む。穴を飛ぶ。旗に触れる。敵は敵。穴は穴。右が進行方向。

現実には、こんなに親切な世界はない。現実では、何が敵なのかも曖昧である。上司なのか、締切なのか、自分の眠気なのか、昨日食べたラーメンなのか、判定が難しい。努力と結果の対応も不透明である。そもそもゴールの旗が立っていない。

一方、マリオの世界は雑だからこそ気持ちいい。ボタンを押せばジャンプする。落ちれば死ぬ。非常に粗い。だが、粗いからこそ扱える。現実の人間関係を踏んでも倒せないし、たいていの場合こちらが社会的に死ぬ。

人間は雑さなしには世界を扱えない。すべてを高解像度で見ようとすれば、情報量に押し潰される。人間は、世界をそのまま理解しているのではない。扱える粒度まで落とすことで、はじめて理解らしきものが可能になる。

問題は、その雑さが行動を開くか否かである。

ゲームの雑さは、行動を開く。HPが減ったら回復する。経験値が少し足りなければもう一戦する。クエストが残っていれば次へ行く。すべてが、次の行動に接続されている。

現実では、行動の結果はすぐ返ってこない。努力しても、どこに効いているのかわからない。どれくらい成長したのか見えない。間違えても、どこを直せばいいのかわかりにくい。

ゲームでは違う。押す。動く。失敗する。修正する。もう一度やる。この距離の短さが気持ちいい。

  1. 現実は、ときどき攻略不能な無理ゲーになる

韓国ドラマ『イカゲーム』のようなデスゲームが奇妙な説得力を持つのは、参加者にとっては現実のほうが攻略不能な無理ゲーだからである。

現実では、何をすれば挽回できるのかがわからない。努力すればいいのか、転職すればいいのか、黙って寝ればいいのか、親ガチャを引き直せばいいのか、操作説明がない。一方、デスゲームには少なくともルール、勝利条件、失敗条件がある。希望はほとんどないが、ゼロではない。

現実より残酷なゲームが、現実よりまだ攻略可能に見える。ここに、人間の認知的な暗部がある。人間は、危険そのものより、攻略不能性に疲れる。危険でも、ルールが見えれば動ける。

 

  1. ゲームは、硬さをフローに変える

ゲームが没入を生むのは、課題の難しさと自分の能力が釣り合いやすいからである。簡単すぎれば退屈する。難しすぎれば不安になる。その中間に、時間感覚が薄れ、行為そのものに吸い込まれる領域がある。

人間は、簡単すぎると文句を言い、難しすぎても文句を言う。たいへん面倒な生き物である。完全な自由を与えると固まり、少し縛ると急に楽しそうに動き出す。犬より首輪にうるさい。

ゲームは、この中間を人工的に作りやすい。だから人間はゲームに没入する。

現実では、課題の難度が自分に合っているとは限らない。簡単すぎる仕事もある。難しすぎる人間関係もある。何が成功なのか曖昧な人生もある。

ゲームは、現実をフローに入りやすい雑さと硬さまで劣化させた世界である。幻想なのに楽しいのではない。よく設計された幻想だから楽しいのである。現実も少しは見習ってほしい。

  1. ゲームは、見える不自由を与える

ここまで見れば、「ゲームとは他人が作った評価関数の中で踊るだけではないのか」という批判も怪しくなる。

たしかに、ゲームの目的は外から与えられる。敵を倒せば点が入る。クエストをこなせば報酬が出る。プレイヤーは、その評価関数の中で動いている。人間としての尊厳が少し心配になる。

だが、そもそもわれわれの本能的な快苦も、自分で作った評価関数ではない。食べたい、勝ちたい、認められたい。これらは身体と環境が勝手に持ち込んだものである。腹が減るのは自分の意志ではない。朝起きたら満腹ゲージが勝手に減っている。

人間は、自分で作っていない評価関数を「自分の本心」と呼び、ゲームをしていると「他人が作った評価関数に踊らされている」と批判しがちだ。

だが、現実の欲望もまた、自分で設計したものではない。

われわれはしばしば自分の欲望を自然なものだと思い込む。だが、ゲームをいくつも遊ぶと、欲望がルールに従って発生することがわかる。コインが価値ある世界では、コインが欲しくなる。経験値が価値ある世界では、経験値が欲しくなる。

欲望は、内側から湧いているように見えるが、実際には、世界の設計によって誘導されている。ゲームはそれを隠さない点で、むしろ正直である。

この点では、現実のほうが陰湿である。何をすれば報われるのか、よくわからない。つまり現実は評価関数が見えにくいのである。逆に、ゲームは評価関数が見えており、不自由を見える形にしてくれるから気持ちいいのである。制限時間や失敗条件がある。だから動ける。

ゲームとは、もともと人間用にレンダリングされた硬い幻想空間を、さらに操作可能で、可視化され、やり直し可能で、快楽に耐える硬さへ再レンダリングする装置である。

体力はHPになり、失敗はリトライになり、評価関数はルールとして表示される。

ゲームとは、硬すぎて不透明な現実を、低解像度で、操作可能で、適度に抵抗する快楽空間へ再レンダリングする第二のVRである。

それは劣化した現実ではない。

現実を、ようやく人間が遊べる硬さまで劣化させたものである。

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