要点
1 多様性は横だけにない
多様性という言葉は、たいてい横方向に使われる。同じ時代に並んでいる人間同士の違いである。国籍、性別、文化、人種、経験。そうした差異が社会の中に共存している状態を、私たちは多様性と呼ぶ。
だが、似た構造は一人の人生の中にもある。
十歳の自分、三十歳の自分、七十歳の自分は、同じ名前で呼ばれている。役所も銀行も、そこに同一人物がいることにしている。そうしないと書類が増えすぎるからだ。
しかし、実際に三人を同じ部屋に入れれば、政策はすぐ対立するだろう。十歳の自分は冒険と自由を主張し、三十歳の自分は仕事と金を語り、七十歳の自分は保全と警戒、ついでに腰痛を訴えるかもしれない。
人間は一色ではない。時間方向に伸びた虹のスペクトルである。ただし、その虹は観賞用ではない。虹というより、虹色の議会に近い。しかも、議長の権限はあまり強くない。
2 現在の会議には、過去が出席している
現在の自分は、一人で考えているように見える。だが、実際には過去の自分たちがかなり口を出している。
若い頃に選んだ仕事。昔信じていた価値観。積み上げた努力。作った人間関係。借りた金。これらはすべて、過去の自分が残した公約や条約のようなものである。
現在の自分が方向転換しようとすると、過去の自分がすぐ騒ぎ始める。
「初志貫徹しないのか」
「その価値観を捨てるなら、昔の私は何だったのか」
「公約違反ではないか」
なかなか面倒である。
しかも、過去の議員たちは正確な議事録を持っているわけではない。記憶の中で美化されたり、歪められたりしている。昔の自分は、だいたい都合よく編集された映像で登場する。
そのうえ、過去の議員の立場は固定されていない。ある時期には英雄だった過去の自分が、別の時期には戦犯になる。日中韓が歴史教科書の記述で揉めるように、現在の政権が変われば、同じ過去でも評価は変わる。自分史も、案外信用ならない。
3 未来の議員は、予算案に口を出す
会議に参加するのは、過去だけではない。未来の自分も、まだ存在しないくせに口を出してくる。
「今サボったら、来週の自分が困る」
「この仕事を辞めたら、十年後の自分は後悔する」
「今年の海外旅行は、未来からの収奪だ」
ここで重要なのは、未来の自分を単なる不安の産物として扱わないことである。未来の自分は、まだ存在しない利害関係者である。老後資金、健康、自由、後悔。そうした未来の利害が、現在の予算案に口を出してくる。
もちろん、その未来の自分は実在する本人ではない。現在の自分が想像した代理人である。だが、代理人でも発言力はある。むしろ、まだ存在しないぶん、好き勝手に理想化される。未来の自分は、しばしば現在の自分より道徳的で、合理的で、貯金好きである。本人が本当にそうなる保証はない。
しかも未来の議員は一人ではない。
海外旅行をした結果、「行ってよかった」と言う未来の自分もいるかもしれない。逆に、「あの金を投資しておけばよかった」と机を叩く未来の自分もいる。未来の議員は単独ではなく、複数の可能性の代理人として現れる。
つまり未来の多様性とは、まだ来ていない複数の自分が、現在の会議に利害代表として参加してくることである。彼らは実在していない。だが、予算要求だけはかなり具体的である。
チャールズ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』では、守銭奴スクルージが、過去・現在・未来のクリスマスの幽霊に訪問される。このエッセイの比喩でいえば、あの三つの幽霊は、時間方向に分散した自己の代理人である。過去は「お前はこう作られた」と言い、現在は「お前は今こう見えている」と言い、未来は「このままならこう終わる」と圧力をかけてくる。未来の幽霊が示すのは、まだ存在しない未来である。それでも、現在の意思決定を変えてしまう。
ここでいう時間方向の多様性とは、十歳の自分や七十歳の自分が、現在の身体の中に文字どおり同居しているという意味ではない。現在にいるのは、あくまで現在の自分である。しかし、その現在の判断には、過去と未来の代理人が参加している。問題は、同時に存在するかではない。同時に発言権を持つかである。
4 自己議会の議題は、だいたい時間と金の予算案である
自己議会が荒れる理由は単純である。過去、現在、未来の利害が一致しないからだ。
過去の自分は、自分の選択が無駄ではなかったことを望む。現在の自分は、いまの苦痛を減らしたい。未来の自分は、できるだけ損を押しつけられたくない。三者は同じ名前を持っているが、利害関係者としてはかなり別人である。
人生の議題は、だいたい時間と金の配分である。いま使うのか、あとに残すのか。経験に払うのか、安心に払うのか。休むのか、働くのか。続けるのか、撤退するのか。
現在の自分が方向転換すれば、過去の自分は「裏切りだ」と言う。現在の自分が快楽を優先すれば、未来の自分は「収奪だ」と言う。未来のために現在を犠牲にしすぎれば、今度は現在の自分が「私は何のために生きているのか」と反乱を起こす。
誰かを満足させると、たいてい誰かが不満を漏らす。
これが自己議会である。
完全に過去へ忠誠を尽くせば、人生は古い公約に縛られる。完全に未来へ従えば、現在は未来への納税装置になる。完全に現在だけを優先すれば、過去は踏みにじられ、未来は借金を背負わされる。
だから現在の自分は、独裁者というより議長に近い。全員を黙らせることはできない。せいぜい発言を整理し、議案をまとめ、採決に持ち込むくらいである。
5 多様性は判断を細かくするが、決定を遅くする
時間方向の多様性は、単にうるさいだけではない。判断を細かくする。
会議に参加する声が少なければ、判断は早い。欲しい。買う。嫌だ。やめる。終わりである。これは速い。だが、速い判断はしばしば粗い。
一方、読書や経験や失敗を重ねた人間の会議は長くなる。昔の貧乏だった自分が支出に反対する。旅を支持する自分が「経験は資産だ」と主張する。投資を学んだ自分が複利計算を始める。哲学を読みすぎた自分が「そもそも欲望とは何か」と言い出す。議長としては、かなり迷惑である。
これは国家でも同じである。多様な利害を抱えた国の民主主義は、話が長い。だが、その長さは単なる欠陥ではなく、見落としを減らすための摩擦でもある。
同じことが、一人の人間の中でも起きる。過去の複数の経験が、現在の判断に別々の角度を与え、未来の複数の利害が、現在の行動に別々の請求書を送ってくる。そのぶん判断は細かくなるが、決定は遅くなる。
高解像度の自己は、単純ではない。
6 人生は虹色の議会である
人生とは、時間方向に分散した複数の自分を、現在がそのつど調停しながら進めていく作業である。
過去の自分は、公約違反だと怒る。現在の自分は、今すぐ休ませろと言う。未来の自分は、資産形成、健康管理、後悔回避の名目で予算を要求する。どの議員も一応もっともらしいことを言うので、余計に面倒である。
しかも、どの議員の言うことが正しかったのかは、あとにならないと分からない。
過去の議員も未来の議員も、状況が変われば平気で立場を変える。海外旅行に反対していた未来の自分が、十年後には「あれが人生の転機だった」と言い出す可能性もある。逆に、旅を推進していた議員が、帰国後のクレジットカード明細を見て突然黙る可能性もある。議員たちは、わりと無責任である。
それでも、採決は必要である。
何かを選ばなければ、何も進まない。全員が納得する決定を待っていたら、人生は委員会の中で終わる。しかも、その委員会は閉会しない。
だから現在の自分は、揉め続ける議会をどうにかまとめ、その場その場で暫定的な採決をするしかない。完璧な決定ではない。だいたい妥協案である。人生のかなりの部分は、崇高な選択というより、議場の空気を読んだ修正動議でできている。
必要なのは、変わらない自己ではない。変わりながら破綻しない自己運営である。
遠くから見れば、人生は一本の虹に見える。だが近くで見ると、その虹は議会を持っている。そしてその議会では、採決がいつも僅差である。
しかも、その採決が正しかったかどうかを判定する頃には、議員の顔ぶれが少し変わっている。
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