人間は、世界をそのまま理解しているわけではない。言葉や図や数式に入れ、なんとか持ち運べる大きさにしている。そうしないと、世界は大きすぎるし、意味はぬるぬるしていて手でつかめない。ただし、持ち運べる大きさにした瞬間、何かが落ちる。
AI時代には、意味を完全に保存しようとするより、いろいろな形式で壊してみた方がいい。その壊れ方を比べ、どの損傷なら残せるかを考える。知性は、たぶんそのあたりへ移っていく。
人間が「わかった」と思うとき、扱っているのは世界そのものではない。世界を切り分け、名前をつけ、圧縮したものだ。言葉、数式、図、比喩、物語。ここでは、こうした表現形式を「檻」と呼ぶことにする。
檻というと物騒だが、檻がなければ意味は逃げる。言葉になる前の感覚は広すぎて、そのままでは比較も保存も反論もできない。「なんかこう、あれだよ」という長嶋茂雄のスタイルでは、本人はわかっているつもりでも、たいてい他人には何も伝わっていない。
だから意味を檻に入れる。ただし、入れた瞬間に形は変わる。
表現とは、意味の保存ではない。表現とは、意味の損傷である。
たとえば、誰かに対する複雑な感情を「愛」と呼んだ瞬間、嫉妬、依存、習慣、身体的欲望、保護欲、孤独への恐怖などは、一つの言葉の後ろに押し込まれる。ずいぶん便利になるが、同時に、ずいぶん雑になる。
数式にすれば情緒や文脈が落ちる。その代わり、変数どうしの関係が見える。図にすれば細かな論理は薄くなるが、全体の配置が見える。表にすれば時間や物語性は消えるが、比較しやすい。
こうした損傷は「劣化」とも呼べる。ただし、単に質が悪くなるという意味ではない。意味を別の形式へ移したときに起きる、元に戻せない変形のことである。
形式化すると、何かが失われる。だが、失われるだけではない。何を失い、何が残ったかを見ることで、もとの意味が何に支えられていたのかがわかる。
翻訳を考えるとわかりやすい。
日本語を英語にすると、日本語にあった曖昧さや余白が失われることがある。その代わり、主語や責任や因果関係が前に出る。英語を日本語に戻せば、硬さがゆるみ、余韻や含みが生まれることがある。その代わり、論理の輪郭は少しぼやける。
どちらが正しいのではない。どちらも違う壊れ方をしている。
英語にしたときに消えたものを見れば、日本語が何を黙って支えていたかがわかる。日本語に戻したときに消えたものを見れば、英語が何を無理やり表に出していたかがわかる。
つまり、壊れ方には情報がある。
ここからAIの話になる。
AIの価値は、正解を出すことだけではない。むしろ、AIを正解を吐く機械としてだけ使うと、もったいない。AIの強さは、同じ意味を短時間で別の檻に入れられることにある。
たとえば、「不安とは、まだ起きていない未来が現在を使い始めることである」という文がある。
これを心理学的に説明すれば、不安とは、将来予測が注意やワーキングメモリを占有し、現在の課題に使える認知資源を減らす状態である、となるかもしれない。論理は明確になり、検証もしやすくなる。その代わり、「未来が現在を使う」という、妙に嫌な感じは死ぬ。
短くして、「不安とは、未来による現在の不法占拠である」とすれば、かなり鋭くなる。記憶にも残る。しかし、不安が生存に必要な予測機能でもあることは、きれいに追い出される。不法占拠なので、弁護士を呼びたくなる。
物語にすれば、返事の来ない携帯電話を何度も見る人物を描ける。その人物の現在は、まだ起きてもいない破局に少しずつ食べられていく。感情と時間は見えるようになるが、一般的な構造は後ろへ下がる。
どの形式も完全ではない。だが、並べてみると、最初の文が何を持っていたのかが見えてくる。学術的な説明は認知資源を見せ、短文は侵略性を強め、物語はその侵略が生活の中でどう進むかを見せる。
一つの形式しか見なければ、その形式が落としたものには気づきにくい。別の檻へ移すことで、意味の輪郭が差分として浮かぶ。
だからAIは、完全な意味保存装置ではない。
AIは、劣化見本市である。
別に、質の悪い文章を大量生産するという意味ではない。それはそれで普通に起こるが、ここで言いたいのは別のことだ。AIは、同じ意味に対して、違う壊れ方の標本を大量に作れる。
もちろん、意味を別の形式へ移すこと自体は、AI以前から行われてきた。翻訳し、図にし、比喩にし、物語にする。AIが発明したのは、この方法ではない。変えたのは速度と量である。以前は時間のかかる創作や思考の作業だった形式変換を、短時間で何度も繰り返せる比較実験にした。
ここで、檻の交換は破壊検査になる。
工業製品は、見た目だけでは強度がわからない。圧力をかけ、熱を加え、曲げてみる。どこで壊れたかを見て、素材の性質を知る。意味も似ている。
短くした瞬間に死ぬなら、その意味は文脈に依存していた。図にして消えるなら、配置より時間の流れに依存していた。比喩にして強くなるなら、その意味は厳密な定義よりも、遠い領域との似方によって生きていた。
逆に、形式を変えても残るものがある。言葉を変え、長さを変え、冷たい説明と物語を往復しても残る関係があるなら、それは比較的頑丈な骨格かもしれない。
数学には、スケールを変えても残る構造を見るパーシステント・ホモロジーという考え方がある。名前は少し大げさだが、ここで借りたいのは単純な発想である。変えても残るものと、ある変え方をした瞬間に消えるものを区別する。
しかも、残るものだけが重要なのではない。消えた場所も重要である。英語にした瞬間に消える余白は、日本語の欠陥とは限らない。むしろ、日本語でしか維持できなかった働きかもしれない。
壊れたから失敗なのではない。どこで壊れたかが、その意味の正体を教える。
ただし、AIに大量の破壊検査をさせれば、それで知性が完成するわけではない。AIは放っておくと、かなり無難なところへ行く。
流暢で、整っていて、誰も怒らせず、何も切らない文章を出す。「大変興味深いですね」と言いながら、世界を一ミリも動かさない会議参加者になる。
これはAIだけの欠陥ではない。AIは、人間社会が好む無難さを大量に学んでいる。AIの凡庸さのかなりの部分は、人間からの差し入れである。しかも返品不可だ。
そこで必要になるのが評価関数である。
評価関数とは、何を残し、何を捨てるかを決める基準のことだ。ただし、価値のある損傷が一種類あるわけではない。何を価値と呼ぶかは、その文章を何に使うかで変わる。
論文なら、感情の圧力を失っても反論耐性を取る。物語なら、定義を少しゆるめても、概念が人の行動や感情の中でどう動くかを見せる。ツイートなら、文脈をかなり殺してでも切れ味を取ることがある。同じ損傷でも、目的が変われば欠陥にも性能にもなる。
比喩も同じだ。厳密さだけを基準にすれば欠陥品だが、遠い構造を一瞬で接続するなら高性能である。たまに無許可増築を始めるので、建築確認は必要だが。
問題は、損傷があることではない。その損傷が、目的に見合っているかである。
AIにも比較や評価はできる。複数案を出させ、矛盾や凡庸さを指摘させることもできる。しかし、どの方向へ壊すべきか、何を失ってよいと考えるかは、最初から決まっていない。
人間が基準を与え、AIが候補を出し、その候補を見て人間の基準も変わる。生成と評価は、人間とAIのあいだを往復する。
AI時代には、文章そのものは余る。要約も翻訳も説明も、いくらでも出てくる。
そこで重要になるのは、最初から完璧な文章を書くことではない。自分の考えを、長文、短文、比喩、図、物語、学術文など、別の形式へいったん移してみることである。短くしたら何が消えたか。物語にしたら何が見えたか。学術文にしたら、どこが強くなり、どこが死んだか。それを比べれば、その考えの骨格と弱点が見えてくる。
この方法は、文章を直すためだけのものではない。自分が何を言いたかったのかを知るためにも使える。一つの形式でうまく書けないとき、考えが弱いとは限らない。その形式と相性が悪いだけかもしれない。図にすれば見えることもあるし、短文にした瞬間に芯が出ることもある。逆に、短くした途端に空になるなら、その考えは文脈にかなり依存していたとわかる。
AIに書かせるだけではない。AIに別の形へ壊させ、その差分を読む。そのうえで、論文なら反論耐性を、物語なら人の行動や感情の変化を、ツイートなら切れ味を残す。
人間は、檻から自由にはなれない。だが、檻を交換することはできる。
思考とは、歪まない表現を探すことではない。目的に合った歪み方を選ぶことである。
This website uses cookies.