エッセイ『尻を出して溺れるな―認知資源の経済学』

人間が水に浮くとき、全身を水面上に出すことはできない。鼻と口を出せば呼吸できる。腕も脚も胴体も、水中に沈んでいてかまわない。ところが配分を間違え、尻が高々と浮いて鼻と口が沈めば、人間はかなり間抜けな姿で溺れる。本人は必死だろうが、遠くから見ると少し面白い。

意識も、だいたいこれに似ている。

人間の内部では、記憶、感情、身体感覚、予測、直感、言葉、連想などが、勝手にせわしなく動いている。しかし、それらを全部いっぺんに意識へ出すことはできない。意識の水面は狭い。何かが浮かべば、別の何かが沈む。

何が水面に浮かぶかには、それまでに読んだもの、経験したこと、繰り返してきた思考、身を置いてきた環境が、水中から作用している。

ここでは、意識の水面上に出ているものを「ロックインされている」と呼ぶ。たいそうな言葉だが、要するに、いま意識を占領しているもののことだ。問題は、なるべくたくさん浮かべることではない。狭い水面に、何がロックインされているかである。

1.水面には、だいたいゴミが浮いている

残念ながら、役に立つものから順番に浮かんでくるわけではない。誰かに言われた一言、小さな恥、終わった失敗、まだ起きてもいない不幸、誰が正しく誰が悪かったかという、すでに判決が出ているのに本人だけが控訴を続けている裁判。こういうものは、よく浮く。感情という発泡スチロールが付いているからである。

もちろん、最初から全部がゴミだったわけではない。不安は危険を知らせる。怒りは、どこかを踏まれたことを知らせる。羞恥は、集団の中で少し変な踊りをしていた可能性を知らせる。それなりに仕事はしている。

問題は、仕事が終わったあとも帰らないことである。危険への対策が済んだあとも不安は残り、とっくに終わった失敗も、なぜかアンコールに応えて再登場する。そのあいだ、別の問いは沈む。まだ言葉になっていない着想などは、こういう連中に水面を占領され、そのまま静かに死ぬ。

ここでいうゴミとは、くだらないもののことではない。いまの目的に対して、頭を使う割に、理解も行動もほとんど変えないもののことである。同じ不安でも、対策を一つ生むうちは情報だ。同じ場面を十二回再生するだけになったら、そろそろゴミである。

ゴミにも事情はある。しかし、溺れている人間の顔の前で身の上話を始められても困る。よく浮くものと、浮いていて役に立つものは、同じではない。

2.何が重要になるかは、何を目指しているかで変わる

では、ゴミを捨てて、重要なものを浮かべればよいのか。何が重要かは、何をしたいかによって変わる。

真理を知りたい人と、金を増やしたい人と、作品を作りたい人と、人間関係を壊したくない人では、同じ情報が、ある人には信号となり、別の人には雑音となる。

だから「重要なことを考えましょう」という助言は、親切そうに見えて、ほとんど何も言っていない。重要とは何かが、まだ決まっていないからだ。

自分が何を「よい結果」とみなすのか。その基準を、ここでは評価関数と呼ぶ。名前は少し偉そうだが、要するに、何をもって勝ちとするかである。

たとえば批評をするとき、「理解を深めること」をよしとするのか、「自分の正しさを守ること」をよしとするのか。前者では、自分に不利な反例も水面に上がっている方が、理解は深まりやすい。後者なら、自分を守ってくれる情報だけが、たいへん元気よく浮かんでくる。

この基準が曖昧だと、その瞬間に一番強い感情が目的を乗っ取る。作品をよくしたかったはずなのに、批判者を黙らせることが目的になる。問題を理解したかったはずなのに、自分が間違っていなかったと証明することが目的になる。

気づいたときには、怒りが社長室に入り、勝手に社印を押している。会社はたいてい傾くが、社長だけは元気である。

3.意識へ出すのは、処理の全部ではない

目的が決まったとしても、そのための処理をすべて意識へ出す必要はない。

歩くとき、右足を何センチ上げ、次に左膝を何度曲げるかを、いちいち確認する人はいない。そんなことを始めたら、前へ進むより先に転ぶ。

話すことも、読むことも、慣れた運動も、その大部分は意識の外で処理されている。

無意識という水中にあるからといって、止まっているわけではない。むしろ水中の方がよく働いていることもある。意識が細部まで口を出し始めると、かえって動きが悪くなる。普段は手際のよい店に、急に本社の人が来て、店員全員の動きを一秒ごとに確認し始めたようなものである。店はだいたい混乱する。

意識に出ていると都合がよいのは、全工程の実況中継ではない。何を目指し、何が結果を左右するかといった、処理の向きを少し変えうる少数の情報である。

4.抽象化は、水面を節約する

その少数の情報が、どんな形で水面へ出ると都合がよいのか。ここで抽象化が効いてくる。

抽象化とは、多くの具体から、共通する形を取り出すことである。上司に言われた一言、学生から受けた反応、家族との摩擦。これらを全部、別々の事件として意識へ上げていたら、水面はすぐいっぱいになる。しかも具体的な事件には、声の調子や表情や、こちらが言い返せなかった一言などが、べったり付いている。たいへん場所を取る。

ところが、そこから「他者評価による行動調整」という共通した形を取り出せば、一つの概念で複数の経験を扱える。良い抽象では、具体の大部分が水中に残り、それらにつながった小さな抽象だけが水面に出る。

抽象化とは、現実から逃げることではない。少ない露出面積で、多くの経験を扱う技術である。

ただし、何でも小さくすればよいわけではない。「すべては権力である」「すべては幻想である」と言えば、世界はかなり小さくなる。たいへん省スペースである。押し入れなら優秀だ。

だが、何でも同じに見える概念は、現実のどこが違い、何を変えればよいのかを教えてくれない。

良い抽象は、海中の具体につながったまま、小さく顔を出している。どの経験からでき、どこでは使えないのかを確かめられる。

経験と切れた抽象は、身体から切り離された鼻のようなものである。水面には浮いている。だが、誰も呼吸していない。かなり嫌な絵面だ。

読書や経験が役に立つのは、読んだことを全部意識へ並べられるからではない。それらが水中でつながり、何が棲み、何が浮かぶかを変えるからである。ある日、一つの抽象や連想が顔を出すこともあれば、三十年前の恥が、深海からわざわざ浮上してくることもある。水中には、かなり有能な編集者と、たいへん迷惑な再放送担当者が同居している。

5.感情は入口と出口で役立つ

そもそも何を目指すかを決めるのは、最後には好みである。何が好きで、何が嫌いで、何を美しいと思い、何を避けたいと思うか。感情は、何を調べるかを決め、最後に考えた結果をどう使うかを決める。

ただし、思考を整理している途中では、感情はゴミになりやすい。怒りや嫌悪は調べ始める理由にはなるが、それ自体は説明の正しさも、対象の仕組みも教えてくれない。

感情を水面へ残したまま考えると、それを補強する記憶や解釈ばかりが浮かんでくる。やがて、もとの目的ではなく、現在の感情を守るために考え始める。怒っている自分を守るために、さらに怒る材料を探す。人間は、こういう無駄な増築が好きである。

感情が途中で少し脇へ寄れば都合はよい。だが、本人が「しばらく廊下で待っていてください」と頼んで、素直に出ていってもらえるわけではない。怒りはだいたい会議室に残るし、ときどき議事録まで書き換える。それでも、感情が議長席にいる思考と、壁際で腕を組んでいる思考とでは、浮かんでくるものがかなり違う。

6.何がロックインされるか

ここまで、何を水面へ出すか、という書き方をしてきた。しかし正確には、何が水面へ出るか、である。

意識が倉庫を見回り、「今日は抽象概念を二つ、不安は一個まで」などと搬入を管理しているわけではない。何が浮かぶかは、過去の経験、身体、感情、習慣、環境、偶然によって決まる。

人生に、正しい浮き方があるわけではない。何かを成し遂げる義務もない。ただ、苦痛を減らしたい、何かを理解したい、今夜よく眠りたいといった局所的な目的が生じれば、それに向く浮き方と、向かない浮き方はある。

「尻を出して溺れるな」と言われて鼻を出す人もいれば、腹を立てて、さらに尻を高くする人もいる。それもまた、水中で決まる。

それでも、言葉が水底の地形を少し変えることはある。

だから一応、書いておく。

 

浮力は有限だ。

鼻と口が出れば、呼吸できる。

尻だけ出れば、溺れる。

 

宇宙はどちらでも困らない。

本人は、たぶん少し困る。

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