エッセイ『幻想のアンインストール—自分を信じないことは、認知の高解像度化である』

<要点>

 

1 人間は現実そのものではなく、脳が構築した認知VRを生きている。
感覚器は世界の一部しか拾わず、脳は欠落を補完し、意味と価値を加える。われわれが現実と呼んでいるものは、人間用に変換された表示画面である。

2 アンラーンとは、信念を消すことではなく、その地位を下げることだ。
絶対的真理から条件つきの仮説へ、命令から選択肢へ、信仰から道具へ戻す。

3 自分を信じないことは、謙虚さではない。
認知バイアスを学び、自分という測定装置の誤差特性を知った結果、自己信頼を条件つきにすることである。

 


 

1 人間は現実の表示画面を見ている

人間が新しいことを考えられないのは、知識が足りないからとは限らない。

むしろ、自分がすでに知っているものを、現実そのものだと思いすぎている。

われわれは世界を直接見ていない。感覚器が外界の一部を取り込み、脳が選別し、補完し、予測し、行動可能な形式へ変換している。

人間が生きているのは、現実そのものではない。

脳が生成した認知VRである。

しかも、かなり古い機種である。入力範囲は狭く、欠落部分は推測で埋められ、ときどき都合の悪い情報だけ自動的に低解像度になる。

それでも画面には、「現実」と表示されている。

ユクスキュルの環世界が示すように、ダニ、犬、鳥、人間は、同じ物理世界の中にいながら異なる経験世界を生きている。

ダニにとって世界は、酪酸の匂い、体温、皮膚へ落下する機会からできている。

人間が見る森の風景は、ほとんど存在しない。

ダニに必要なのは、夕焼けの美しさでも人生の意味でもない。

温かい皮膚である。

非常に明確な世界観だ。

人間の環世界だけが、現実の完成版である理由はない。

カント的にいえば、われわれが経験するのは、認識装置を通過して現れた現象である。人間は、人間の認識形式を迂回して物自体を知ることができない。

人間が「現実」と呼んでいるものは、人間向けのユーザーインターフェースである。

しかも、設定画面はほとんど開かない。

 

2 価値は現実に重ねられた表示である

認知VRには、形や色だけでなく、価値も表示される。

善い。悪い。成功。失敗。正常。異常。責任。恥。

人間は、こうした価値が対象そのものに埋め込まれているかのように感じる。

だが、石には質量があっても、善悪はない。

石で人を殴れば問題になるが、石自身には道徳教育の効果は期待できない。

ある行為には物理的な結果がある。誰かが傷つき、資源が失われ、集団が不安定になる。

しかし、その行為を「悪」と呼ぶことは、物理現象そのものの記述ではない。

苦痛、感情、文化、歴史、権力関係を通じて形成された評価である。

ここでいう幻想とは、偽物という意味ではない。

認知と社会によって生成され、人間の行動を組織する意味構造である。

国家、通貨、学歴、成功も同じである。

共同幻想だから無力なのではない。

共同で維持されるからこそ、異常に強い。

通貨はただの紙である。

だが、その紙を十分に集められなければ、家主は「貨幣は共同幻想ですね」と哲学的に理解してくれるわけではない。

むしろ契約書という別の共同幻想を出してくる。

それでも支払わなければ、裁判所という大型幻想が起動する。

幻想は実在しない。

ただし、実在する人間を家の中から路上へ移すす程度の力は持っている。

 

3 自分を信じる前に、製品仕様を確認する

人間は、自分の認知が不完全だと一応は理解している。

ただし、「人間は間違う」と聞いたとき、たいてい最初に思い浮かべるのは他人である。

自分は例外だ。なぜなら、自分だからである。

必要なのは、自分の認知がどのように失敗するかを具体的に知ることだ。

たとえば、WYSIATI。

What You See Is All There Is。

人間は、目の前にある情報だけで物語を完成させ、見えていない情報の存在を忘れる。

三人から悪口を聞けば、世界中が自分を嫌っていると判断する。

残りの80億人には、まだ確認していない。

だが、調査は完了しているらしい。

次に、フォーカシング・イリュージョン。

ある要素に注意を向けると、その要素が人生全体を決めるかのように感じる。

収入を考えていると、人生は収入で決まる。

恋愛を考えていると、人生は恋愛で決まる。

一つの失敗を考えていると、人生全体がその失敗の注釈になる。

重要だから目立つとは限らない。

目立っているから重要に感じているだけかもしれない。

さらに、自由意志の感覚がある。

人間の行動は、遺伝、神経活動、身体状態、過去の経験、環境から生成される。

それでも意識は、「私が選んだ」という感覚を持つ。

人間はまず動き、その後で理由を語る。しかも、その広報担当者はかなり話がうまい。失敗すれば、「本来の自分ではなかった」。成功すれば、「最初から信じていた」。何も考えていなかった場合でも、「直感に従った」と立派に再包装する。脳内広報部には、事実確認部門がないらしい。

自己とは透明な司令塔ではない。内部で進行した処理の一部を、あとから物語として受け取っている存在である。

ここまで知れば、自分を無条件に信じることは難しくなる。

だが、これは謙虚さとは異なる。

「私も間違うかもしれません」と礼儀正しく頭を下げることではない。

自分という測定装置の誤差特性を理解し、その出力に適切な信頼区間をつけることである。

自分を信じないことは、自己否定ではない。

認知の高解像度化である。

 

4 アンラーンとは、信念を降格させることである

Learnが知識や信念を身につけることなら、unlearn(アンラーン)とは何か。

アンラーンとは、身につけた信念を、絶対的な真理から条件つきの道具へ降格させることである。

昨日まで命令を出していた信念に、「今後は助言だけお願いします」と伝える。

真理から仮説へ、本質からモデルへ、信仰から道具へ。

たとえば、「努力は報われる」は宇宙の法則ではない。

宇宙は努力を採点しない。

ブラックホールは勤勉な人間も怠惰な人間も、公平に吸い込む。

「努力は報われる」は、努力を継続させるためには有効な物語である。しかし、撤退すべき状況では、人間を消耗させる。穴を掘る方向が間違っているとき、掘る速度を上げても成長とは呼ばない。

信念は、正しいか間違っているかだけではない。「どの環境で、何の目的に、どこまで有効なのか?」と問えるようになったとき、信念は絶対的真理から条件つきの道具へ降格する。

つまりアンラーンとは、信念を捨てることではなく、信念から管理職の権限を外すことである。

 

5 人間は知識を持っているつもりで、知識に動かされている

信念は、文章として静かに保存されているわけではない。

「これは正しい」「これが成功だ」「こう生きるべきだ」などの信念には、感情と行動命令が組み込まれている。

人間は自分で判断しているつもりで、親、学校、社会からインストールされた通知に反応している。

教育は新しい知識を入れる方法を熱心に教える。削除方法はほとんど教えない。試験に出ないからである。むしろ知識を消したらテストの点数が減る。

「普通であれ」という通知は、特にしつこい。起動を許可した覚えもないのに、人生のかなり早い段階から「普通であれ.exe」がバックグラウンドで動いている。終了しようとすると、「この操作を行うと、家族との会話に支障が出る可能性があります」と警告される。

さらに、「社会から浮く可能性があります」「本当に終了しますか」と、何度か確認される。

人間は知識を持っているのではない。しばしば、知識に住み着かれている。しかも信念を手放せないのは、それが正しいからとは限らない。その信念に自己像を預けているからである。

長く学んだ専門性、過去に成功した方法、親や教師に褒められた価値観は、「自分は何者か」という自己定義の一部になる。

だから信念を疑うと、知識ではなく自分が攻撃されたように感じる。人は信念を守っているつもりで、信念に預けた自己評価を守っているのだ。

アンラーンとは、過去の自分を否定することではない。過去の自分に、現在の管理者権限を与え続けないことである。

 

6 アンラーンの五つの操作

アンラーンには、少なくとも五つの操作がある。

 

A 知覚と現実を分離する

「世界がこうである」ではなく、「私の認知装置には、いまこう表示されている」と言い換える。

「これは恥ずかしい」ではなく、「私の認知OSが、これに恥というタグを表示している」と考える。

タグは表示されてもよい。ただし、画面上のラベルを対象そのものと取り違えない。

B 見えていない情報にも席を用意する

いま見えている証拠だけで物語を完成させていないか。反対証拠が存在しないのではなく、単に探索していないだけではないか。

WYSIATIへの対抗策は、会議に出席していない情報にも議決権があるかもしれないと考えることである。なお、欠席者はたいてい多い。

C スポットライトを太陽だと思わない

いま考えているから、重要に感じているだけではないか。

一つの失敗、一つの評価、一人の人間が、人生全体を代表していないか。スポットライトが当たっていることと、舞台全体で最重要であることは別である。照明係はよく間違える。

D 信念の履歴書を見る

その信念はどこから入ったのか。何を可能にし、誰を守り、誰に利益を与えるのか。どの環境では役立ち、どの条件で破綻するのか。

由来が外部にあるから誤りなのではない。

ただし、親や学校から自動的に受け継いだ価値観を、「私が長年の思索の末に到達した哲学」として提出するのは、少し経歴を盛っている。

E 通知と実行を分ける

古い反応が起きても、ただちに従わない。

「普通であれ」という通知が出たら、「通知は確認した。しかし実行するかどうかは別だけど」と処理する。

「もっと努力しろ」「結婚しろ」「もっと社交的になれ」「同年代はもう家を買っている」なども、すべて通知にすぎない。

緊急警報の音が鳴っていても、内容はたいてい他人の感想である。

重要なのは、どの信念を持っているかだけではない。誰が起動権を持っているかである。

 

7 幻想を完全に削除すると、社会生活もかなり削除される

価値が幻想であると理解しても、人間が幻想の外へ出られるわけではない。認知VRを外すことはできない。

社会もまた、共有された幻想によって動いている。約束、責任、通貨、所属などを毎回ゼロから再検討していては、協力のコストが高くなりすぎる。

待ち合わせのたびに、「そもそも時間とは何か」から議論を始める人とは、あまり待ち合わせたくないだろう。

つまり絶対視には、計算を省略する利点がある。疑わずに従える信念は、人間を速く動かす。方向が間違っていても、とにかく速い。

だからアンラーン能力が高いことが、社会的成功や幸福に直結するとは限らない。所属感は弱くなる。道徳的熱狂に参加しにくくなる。みんなが旗を振っているときに、旗の製造原価と象徴機能を考えてしまう。

すべてを条件つき仮説として眺める人間は、祭りの最中にも足場の耐荷重を計算している。安全ではある。たぶん、あまり踊れない。

必要なのは、幻想の完全削除ではない。幻想であると知りながら、必要なときだけ選択的に起動する能力である。幻想に動かされるのではなく、幻想を使用する。

祭りには参加してもよい。ただし、神輿が宇宙の中心だと思う必要はない。

 

8 AIを最新にしても、人間の前提は自動更新されない

AI時代には、情報を得る能力は安くなる。AIが要約し、翻訳し、比較する。人間が三日かけて読む資料を、AIは数秒で処理する。

しかし、人間が自分の認知VRを現実そのものだと思っていれば、何も変わらない。AIが異物を持ってきても、古い道徳、専門性、成功体験、自己像が、それを既存の人生観へ回収する。

AIは人間の知性を拡張するだけではない。人間が何を絶対視し、何を受け入れられないかも可視化する。

ときどき、AIよりユーザー側の互換性エラーの方が深刻である。

AI時代のボトルネックは、情報不足ではない。自分の認知を信頼しすぎることである。

アンラーンできない人間は、古い幻想の内部で高性能化する。知識を増やし、処理速度を上げ、既存の正解へより巧みに到達する。

最新のAIを使いながら、前提だけは昔のままということも起こる。

 

9 アンラーンは空き容量をつくる

アンラーンできる人間は、自分の現実を、現実そのものではなく一つの構築物として見る。

自分を信じないのは、謙虚だからではない。自分という認知装置の仕様書を、最後まで読んだからである。

そこでは、信念は絶対的真理ではなく、条件つきの道具になる。必要なら使う。不要なら止める。幻想に動かされるのではなく、幻想を使用する。

アンラーンは、個々の信念から自動実行の権限を外す。

ニヒリズムはさらに、その信念を支えていた価値や意味に、最終的な根拠がないことを示す。

アンラーンがアプリの自動起動を切る作業なら、ニヒリズムは、「そもそも、このアプリを必須だと指定した中央管理者は存在しません」という通知である。

善悪、成功、責任、正常といった価値が、世界そのものに刻まれた命令ではないと理解すれば、その権威は大きく下がる。

宇宙は、こちらが普通に生きたかどうかを採点していない。提出期限もない。ただし人間社会は勝手に採点表を作り、赤いペンまで握りしめている。

ニヒリズムはアンラーンそのものではない。

アンラーンを個別の信念の更新から、意味体系全体の相対化へ進める溶剤になりうる。

ただし、すべてを溶かすことが目的ではない。床まで溶かすと、立つ場所がなくなる。

アンラーンとは、何も信じなくなることでも、信念を消すことでもない。

信念を絶対的真理から条件つきの道具へ戻し、その自動実行を止めることである。

空いた領域には、別の信念を入れてもよい。何も入れなくてもよい。

重要なのは、次に何が起動するかを、古い幻想だけに決めさせないことである。

脳内会議には、まだ過去の自分が出席している。発言は認めてもよいが、議長にする必要はない。

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