エッセイ『幻想の熱帯雨林—大きな物語の死は、幻想のカンブリア爆発だった』

要点

1
幻想とは、ただのウソではない。人間を動かす意味環境である。何を欲し、何を恐れ、何に救われた気になるか。その配置が変われば、人間の行動も変わる。

2
人類は幻想を卒業していない。神話、宗教、国家、貨幣、ブランド、SNS、AIへと、幻想の保存・複製・流通・個別化の技術を進化させてきただけである。卒業どころか大学院まで行っている。

3
大きな物語は死んだのではない。地盤と気候になった。その上で小さな物語が、蔓、菌類、ウツボカズラのように勝手に増えている。現代人は承認、怒り、救済がじめじめ繁殖する、幻想の熱帯雨林に住んでいる。


大きな物語は死んだのではない。国家や資本主義のような巨大幻想は地盤と気候になり、その上でブランド、SNS、アニメ、AIが小幻想を繁殖させている。現代人は、幻想の熱帯雨林で、わりと快適そうに迷子になっている。

ここでいう幻想とは、ただのウソではない。人間を動かす意味環境である。何を欲し、何を恐れ、何を恥じ、何を救済と感じるか。その配置が人間を動かす。

国境は地中に埋まっていない。貨幣の価値は紙の中に入っていない。ブランドはロゴそのものではない。しかし、それらは人を働かせ、買わせ、従わせ、怒らせ、ときには死なせる。物質としては軽いのに、作用としては妙に重い。

共有された意味が制度、資源、身体へ接続されたとき、幻想は現実を動かす。つまり人間社会は、かなり本気で「みんなでそういうことにしているもの」に動かされている。

1 幻想は単独では立たない

まず、幻想は頭の中だけでは弱い。

ひとりが「この紙には価値がある」と思っても、それだけでは変な人である。だが、店が受け取り、銀行が記録し、国家が税を取ると、その紙は貨幣になる。

幻想は、他人の同意、制度、報酬と罰につながったとき、現実の力を持つ。神も国家もブランドも、この網なしには立たない。

森が木一本でできていないように、幻想も一つの信念だけでは動かない。人間の内側にある欲望と、外側にある制度や市場が絡み合ったとき、幻想の熱帯雨林が生まれる。頭の中の思い込みも、社会の湿度が高いとよく育つ。

その森の中で、物語は時間軸を担当する。出来事を選び、因果を作り、敵と味方を置くことで、人間が歩ける地図を作る。

人間は、一つの物語だけを生きているわけではない。国家、家族、職業、趣味、失敗の記憶、未来への期待が重なり、その中で「私」は自分を見つける。

2 神話から制度へ

幻想の原型は神話だった。雷、病気、死、王権。神話は、世界の説明と人間の誘導をまとめて処理した。何が起きているのかを語ると同時に、誰に従い、どう生きるべきかまで決めた。昔の人は、気象情報と人生相談と政治思想を、だいたい一つの物語で処理していたのである。

神話が宗教になると、幻想は保存されるようになった。物語は聖典に残り、儀礼として身体に反復され、集団によって共有された。語り手が死んでも物語は死なない。幻想にバックアップ機能がついたのである。

国家は、その仕組みをさらに大きくした。国民の大半は互いを知らない。それでも学校、法律、軍隊を通して、人は分類され、移動させられ、ときには死なされる。

制度は幻想の外側にあるのではない。制度は幻想を支え、幻想も制度を支える。国民という物語があるから学校教育が意味を持ち、学校教育があるから国民という物語が再生産される。国民という概念は、自然発生したキノコではない。学校という朽ち木に、毎年、胞子がまかれている。

神、国家、貨幣は、単なる原因でも結果でもない。互いに支え合う網である。

幻想が「信じられている話」から「反復される社会装置」へ変わる。

3 巨大幻想の時代

この問題を近代へ広げると、幻想は世界全体を説明する巨大な地図になる。

20世紀の自由主義、共産主義、ファシズムは、巨大化した幻想だった。それらは政策の束ではない。人間とは何か、歴史はどこへ進むのか、誰がそれを妨げているのかを、一つの物語へ圧縮した。

大きな物語は、複雑な世界を歩ける地図に変える。自分の位置、進む方向、敵の場所が見える。人間は現実をそのまま持てないので、こうした地図を欲しがる。

ただし、地図は中立ではない。道を太くし、危険地帯を塗り、敵の位置を描き込む。複雑な説明より、殴れる敵の方がわかりやすい。脳の設計が、あまり高級ではない。

巨大幻想は、世界を統合するふりをして、地図に入らないものを敵として処理する。人間が物語のために死んだというより、物語によって何が死に値するかを決められたのである。

20世紀の戦争は、領土や資源をめぐる争いであると同時に、どの幻想が人間の認識空間を造成するかをめぐる競争でもあった。要するに、どの地図アプリを全員の脳に標準搭載するかをめぐる争いである。負けると、土地だけでなく、世界の見え方まで上書きされる。

4 資本主義は意味を腐らせ、需要を作る

資本主義は、意味を作り、古くし、買い替えさせる技術を発達させた。宗教や国家は、一つの意味を長く維持しようとする。資本主義は逆である。意味を短命にし、次の意味を売る。

ファッションがわかりやすい。服はまだ着られる。だが「古い」と意味づけられた瞬間、社会的には死ぬ。布を壊す必要はない。意味を腐らせればよい。

しかも、それは命令として来ない。「これを買え」ではなく、「あなたはこれを欲しいはずだ」という顔で来る。外から殴られるより、自分の内側から営業マンが出てくる方が厄介である。断りにくい。なにしろ自分なのだから。

スティーブ・ジョブズも、既存の需要に応えただけではなかった。製品を先に提示し、それ以前の生活を不便に見せた。作ったのは商品だけではない。その商品を必要とする人間である。人類はスマホを欲しがったのではない。スマホを見せられて、スマホのない自分が急に原始人に見えたのである。

資本主義は、欲望を満たすだけではない。欲望が発生する環境そのものを作る。

5 大きな物語の死後

次に、小幻想がどのように熱帯雨林化したかを見る。

幻想を外へ出しやすくなると、すべてが社会全体を覆う必要はなくなる。少数の人間にだけ深く刺さる物語でも、その集団から注意や金を得られれば生き残れる。

現代文化は、一つの巨大幻想に覆われた平原ではない。巨大幻想の地盤の上に、無数の心理的ニッチが生まれ、それぞれに小幻想が繁殖する熱帯雨林である。世界宗教にはなれなくても、月額課金の森では立派な多年草である。

アニメ作品そのものは、国家や貨幣と同じ意味での幻想ではない。作品内の世界は、まず虚構である。それだけで税を取ったり、人を投獄したりはしない。

しかし作品は、幻想の材料になる。物語が特定の自己像や救済像をくり返し、視聴者がそれを使って現実を評価し始めると、その周囲に小さな幻想が育つ。

異世界転生が供給しているのは、架空世界そのものではない。現実では制御権を持てない人間に、「別の環境なら自分は評価される」という一時的な自己像を与える。現実の土壌から承認を得られない場所で、物語がウツボカズラのような捕獲器官になる。甘い匂いがして、中をのぞくと、都合のいい自分がいる。危ない。

自己最適化コンテンツは、「今の自分は未完成である」という不足感を育てる。陰謀論は、自分たちだけが真相を知っているという高所感を育てる。どちらも情報そのものではなく、特定の自己像を栽培している。

小幻想は、それぞれ違う栄養を吸う。承認、怒り、不安、自己嫌悪、孤独。どれか一つをうまく吸えれば、森の中で生き残れる。人間の弱さは、だいたい誰かの肥料になる。

こうして大きな物語の死は、幻想の絶滅ではなく、小幻想の繁殖条件の変化になった。

大きな物語の死は、幻想のカンブリア爆発だったのだ。

6 設計者のいない地形

この熱帯雨林で何が広がるかは、価値ではなく、反応によって決まりやすい。

市場とプラットフォームは、人間の注意を測定可能な資源にした。何が見られ、押され、共有されたかが記録され、その結果が次の配布へ反映される。ここでは、真偽や有益性より、反応を生みやすいことが強い。森は哲学書より、よく伸びる蔓を優先する。

複雑な説明より、明確な敵の方が速い。不確実な現実より、断定的な陰謀の方が処理しやすい。熟考は画面の外で起きるが、怒りはクリックとして記録される。数字は、怒りにも親切である。

反応は価値ではない。だが、プラットフォームは反応を読む。だから、怒りや恐怖のように増えやすい幻想が、森の中で光を奪いやすくなる。よく育ったからといって、よい植物とは限らない。毒草も、条件が合えば堂々と繁る。

これは、誰かが中央で設計した完全な洗脳ではない。企業は収益を求め、プラットフォームは滞在時間を延ばそうとし、利用者は目の前の刺激に反応する。その小さな動きが重なり、人間の注意を吸いやすい幻想が育つ。

よく育ったからといって、よい植物とは限らない。湿度、光、栄養、繁殖条件を見る。人間社会の森もだいたい同じである。良いものが育つのではない。育ちやすいものが育つだけである。

つまり、設計者がいないことは、設計されていないことを意味しない。

7 巨大幻想は気候になる

小幻想が増えたからといって、大きな幻想が消えたわけではない。

自由主義や資本主義は、信仰というより環境になった。現代人はそれを毎朝唱えなくても、自分で職業や商品や生き方を選ぶ主体であることを当然視している。魚が水を信仰しないように、人間は環境になった幻想を信仰とは呼ばない。

ただし、環境になった幻想は消えたわけではない。経済不安や戦争で制度が揺らぐと、国家、民族、宗教は再び前景へ出る。平時には空気。危機には神棚。人間の扱いはだいたい雑である。

大きな物語は死んだのではない。地盤と気候になり、その上に小幻想を繁殖させている。

8 個別化された他律

最後に、AIによって幻想が一人ずつ育てられる段階を見る。

これまでの幻想は、ある程度まで他人と共有される必要があった。神話には共同体があり、宗教には信徒があり、国家には国民がいた。

AIが作る意味環境は、一人のためだけに存在できる。その人の履歴、恐怖、欲望に合わせて、何を信じ、誰を敵とし、どこに救済を見いだすかまで調整できる。ついに幻想にもオーダーメイドの時代が来た。

これは幻想生成の民主化に見える。だが、そこで作られる世界は無から生まれない。過去の行動や反応を材料にして、その人が受け入れやすい次の意味を生成する。要するに、昔の自分が未来の自分へおすすめ商品として返送されてくる。

個人化とは、自由の拡大というより、過去の自分による未来の包囲になりうる。AIは欲望に従うだけではない。欲望を推定し、本人へ返し、その反応を見て、次の欲望が育ちやすい森を整える。専用庭師である。ただし、何を育てているのかは庭師の方がよく知っている。

個人専用の森は快適だろう。だが快適すぎる森では、他人や現実との摩擦が減る。人は、自分に合わせて剪定された木々だけを見るようになる。

森は美しいが、出口の位置まで本人に合わせて動き始める。

20世紀の巨大幻想は、多数の人間に同じ地図を配った。21世紀には、森そのものが個人ごとに調整される。人類はついに、一人一人に専用の迷子空間を持てるようになった。進歩である。たぶん。

終わりに 幻想の熱帯雨林

大きな物語は死んだのではない。地盤と気候になり、その上で無数の小幻想を育てている。

現代人は、幻想のない荒野に立っているのではない。幻想の熱帯雨林に住んでいる。

そこには、高木のような国家があり、地表を覆うブランドがあり、蔓のように絡む趣味があり、菌類のように増えるミームがある。見た目には自由な多様性だが、それぞれは人間の注意、欲望、恐怖、孤独を養分にしている。

この森は、頭の中だけにあるのでも、社会の外側にあるのでもない。物語、制度、市場、プラットフォーム、AIが互いに前提を与え合う場所に生えている。

私たちは、その森の中から好きな物語を選んでいるつもりでいる。しかし、選択を行う「私」も、欲望も、評価基準も、森の外から持ち込まれたものではない。

幻想とは、存在しないものを現実の力へ変える装置である。そしてその装置は、人間の外側から命令するだけではない。人間の内側で、「自分の考えです」という顔をして働く。

われわれは幻想を選ぶだけではない。

幻想の側もまた、自分がよく育つ人間を選んでいる。

人間は森を観察しているつもりでいる。だが、森もこちらを観察している。

こちらが植物園の客のつもりでウロウロしているあいだに、私たちはとっくに森の肥料にされている。

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