暴力は評判が悪い。痛いし、後始末にも金が
かかる。だから人間は長いあいだ暴力に反対してきた。そして、かなり頻繁に暴力を使ってきた。
問題は、人間が暴力を嫌っていないことではない。嫌っていても、条件がそろえば選ぶことにある。
では、どの条件で暴力は選ばれ、どの条件なら選ばれなくなるのか。反戦を感情表明だけで終わらせないなら、見るべきなのは暴力への嫌悪ではなく、暴力が合理的に見えてしまう条件である。
1.嫌悪は説明ではない
ふつう暴力は嫌われる。痛みも、恐怖も、怒号も、身体的支配も不快である。私も、腕力で問題を解決する場面には関わりたくない。
しかし、嫌いであることは説明ではない。暴力が嫌いだからといって、暴力が社会の底面から消えるわけではない。嫌悪は認知の反応であって、世界の構造ではない。人間はしばしば、自分の不快感を真理と取り違える。
嫌いなものを悪と呼び、怖いものを野蛮と呼び、見たくないものを例外として処理する。だが、自分が依存している暴力だけは、法、秩序、安全保障と呼び換え、暴力としての輪郭を薄くする。
個人の暴力は非難される一方で、それを抑える警察や軍の強制力は、正当な機能として背景へ退く。暴力は消えたのではない。分類を変えられ、見えにくくなったのである。
人間は暴力が嫌いなのではない。自分の名義で請求書が来る暴力が嫌いなのである。
暴力は肯定する必要も、礼賛する必要もない。ただ、どの条件で現れ、どの条件で後景化するのかは考えておいて損はない。
暴力嫌悪は感情である。暴力分析は構造の問題である。反戦を考えるには、まずこの二つを分ける必要がある。
2.苦痛嫌悪型反戦の限界
戦争反対、と叫ぶ人は多い。戦争で苦しんだ人の物語に共感し、「戦争は嫌だ」と言う。
しかし、「苦しいことが嫌だ」というのは、生物学的にはほとんどトートロジー(同語反復)である。苦痛嫌悪は生命のデフォルト設定にすぎない。「戦争は苦しいから反対だ」と言っても、それは思想というより、「痛いのは嫌です」という、聞く前からわかっている話である。戦争がなぜ起きるのかについては、まだ何も説明していない。
ここで批判しているのは、反戦そのものではない。苦痛を避けたいという感情だけに支えられた反戦である。その種の反戦は、戦争が始まると簡単に姿を変える。戦争そのものに反対していたはずが、「少なくとも自分たちは負けるな」という願いになる。
敵の侵攻を止め、自国の兵士が勝ち、相手側の戦闘能力が破壊されることを受け入れる。
反戦は、開戦すると勝利祈願になる。
これは必ずしも偽善ではない。苦痛を避けたいなら、敗北を避けるために戦争を支持するのは自然な帰結である。だから、苦痛嫌悪に基づく反戦は脆い。平時には平和主義に見えても、戦時には自陣営の生存戦略へ変わる。
反戦が本当に意味を持つには、「戦争は嫌だ」から、「なぜ戦争が選ばれるのか」へ進まなければならない。
3.戦争は評価関数の衝突である
ここから戦争を、感情ではなく選択の問題として考える。評価関数とは、何を守り、何を失ってよく、どの未来を最悪とみなすかを決める価値計算のことである。
国家も、宗教集団も、個人も、それぞれ異なる評価関数を持っている。何を守るか、どこまで妥協するか、どの屈辱なら飲み込めるか。その答えが違えば、同じ現実を見ても結論は変わる。
価値計算に重なりがあるあいだは、金銭、時間、制度、言葉で調整できる。だが重なりが消えると、一方の最低条件が、他方には許容不能になる。一方の正義が、他方には破滅に見える。一方の安全保障が、他方には侵略に見える。
当事者は、戦争が苦しいことくらい知っている。それでも敗北や屈服よりはましだと判断する。
このとき「戦争反対」と言っても、当事者に既知の副作用を読み上げているだけである。評価関数は一ミリも動かない。
戦争は、苦痛を知らない愚か者だけが起こすものではない。苦痛を計算に入れてもなお、選ばれることがある。だから厄介なのである。
4.暴力は交渉条件を書き換える
評価関数が衝突しても、すぐに暴力になるとは限らない。人間社会には、対立を処理するためのいくつもの迂回路がある。
話し合えるうちは言葉を使う。交換できるものなら市場を使う。利害がぶつかれば制度に預け、命令が必要なら法を使う。暴力は、そうした手段が機能しているあいだは、表に出てこない。
だが、暴力は交渉が失敗した後にだけ現れるわけではない。先に殴ってから話し合うこともある。領土を奪ってから停戦し、相手の選択肢を減らしてから妥協を迫ることもある。
暴力は、交渉が尽きた後の手段であると同時に、交渉条件そのものを書き換える手段でもある。
その強みは単純さにある。相手の理由を理解しなくても、身体を止めることはできる。合意がなくても、土地を奪うことはできる。納得させなくても、従わせることはできる。
言葉や制度は、多くの情報を扱う。暴力は、その大半を捨てて結果だけを出す。速い。ただし、粗い。紛争を終わらせることはあっても、対立の理由までは消せない。
この意味で、暴力は社会の低層言語である。ここで低層とは、原始的という意味ではない。上の仕組みが止まっても動く、より直接的で、強制的な処理方式という意味である。
そして、この層は文明より古い。生命は、自分と外部を分け、境界を守り、資源を取り込み、侵入を排除する。
植物もまた、光、水、土壌、空間を奪い合い、他の植物の成長を妨げる物質を放つことがある。食虫植物は、その論理を動物にまで拡張した極端な例にすぎない。植物は平和なのではない。動かないので、暴力が見えにくいだけである。
もちろん、細胞分裂や捕食をそのまま人間の暴力と呼ぶことはできない。共通しているのは行為ではなく、自己を維持するために外部を選別し、排除する構造である。
そして、排除は境界がなければ成立しない。何を自分として守り、何を外部として退けるのか。その区別ができて、初めて排除すべき対象が生まれる。暴力の起源は、殺すことではない。自己と非自己を分けたことにある。
文明はこの古い処理方式を消したのではない。その上に、言語、倫理、法、制度という制御層を積み上げたのである。
5.国家は暴力と物語を束ねる
この制御層を社会全体の仕組みにしたものが国家である。
国家は個人に、勝手に殴るな、殺すな、復讐するな、と命じる。その代わり、必要な暴力はこちらで引き受けると言う。これは倫理の勝利というより、暴力の外部委託である。私的運用を禁じ、公的運用へ一本化しただけとも言える。
法も、暴力を消すためのものではない。誰が、いつ、どの条件で強制力を使ってよいかを決める仕組みである。秩序とは、暴力がなくなった状態ではなく、制服を着せられ、書類を持たされ、手続きの後ろへ回された状態である。
だが国家は、暴力を管理するだけの装置でもない。領土、民族、歴史、主権、祖国、正義、安全保障といった物語を束ねる巨大な価値体系でもある。ここでいう物語とは、何を守るべきか、何を失えば自分たちでなくなるのかを決める、共有された意味の枠組みである。
仮説なら、新しい情報によって更新できる。だが国家の物語は、更新すると自己紹介そのものが崩れる。だから国家も学習はするが、かなり往生際が悪い。敗戦、革命、世代交代のような大きな衝撃があって、ようやく物語を書き換える。
国家は学習しないのではない。学習すると自分が自分でなくなるので、平時には先延ばしにするのである。
さらに国家は、過去の犠牲を使って自分を固定する。「彼らの死を無駄にしてはならない」。死者が増えたからこそ方針を変えるべき場合でも、撤退は裏切りに見える。犠牲が大きいほど、物語を維持しなければならなくなる。
国家は、サンクコストを記念碑に変える装置でもある。記念碑は死者を悼むと同時に、政策変更を不敬へ変換する。こうして物語は硬くなり、評価関数を固定し、戦争を長引かせる。
6.平和とは、計算しなくてよいことである
では、暴力が表に出ずに済んでいる状態とは何か。
平和とは、暴力が消えた状態ではない。暴力が制度に預けられ、日常の判断から外れている状態である。
平時には、相手の国籍や民族や歴史をいちいち計算に入れずに、恋愛し、商売し、旅行し、雑談できる。どの言語を話すか、何を買うか、誰と付き合うか。そのたびに政治的立場を申告しなくてよい。
この「計算しなくてよい」という状態こそ、平和の実質である。コーヒーを買うたびに国際政治を考えなくてよい。パンを食べるたびに歴史的責任を背負わなくてよい。買い物袋まで思想表明を始める社会は、かなり面倒である。
しかし戦時になると、日常は急速に政治化される。言語は立場になり、買い物は支援になり、沈黙は加担になり、交流は裏切りになる。昨日までの友人関係まで、急に思想審査の対象になる。
戦争とは、爆撃や殺人が始まることだけではない。暴力が、日常の計算項目へ強制的に戻ってくることである。
このとき、反戦ですら中立ではいられない。平和を望むことさえ、どの陣営を利し、どの暴力を許容し、どの敗北を受け入れるのかという計算に巻き込まれる。
平和とは、暴力がないことではない。暴力を日常の計算項目から外せる状態である。
では、戦争を減らすにはどうすればよいのか。
近代が暴力をある程度抑えられたのは、人間が善良になったからではない。戦うより取引し、奪うより買い、殺すより雇うほうが、安くて便利になったからである。文明とは、暴力以外の選択肢を増やしてきた仕組みとも言える。
つまり、戦争を減らしたいなら、暴力が得に見える条件を変える必要がある。
貧困や資源不足、制度への不信、未来への絶望を減らせば、暴力を選ぶ利益は下がる。だが、人間は利益だけで動くほど合理的ではない。屈辱、祖国、民族、歴史のためなら、損を承知で戦う。
だから必要なのは、物質的な条件だけでなく、妥協が何に見えるかを変えることである。
物語の重みを変えるとは、信念を消すことではない。そんなことを言われて、素直に消える信念なら、そもそも戦争にはなっていない。
必要なのは、同じ選択に別の意味を与えることである。撤退を敗北ではなく、将来を残すための判断と呼ぶ。主権を今すぐ渡すか守り抜くかの二択にせず、期限付きの共同管理へずらす。表向きは双方が負けていない形を残し、その裏で実際の衝突だけを減らす。段階的な履行、わざと曖昧にした文言、第三者の保証。こうした仕組みは、正面から見ると少し卑怯に見える。だが和平では、卑怯さが出口になることがある。
面子を壊さずに現実だけを変える。物語の重みを変えるとは、そういう設計である。
領有か放棄かの二択を共同管理へずらす。撤退を敗北ではなく、将来を残すための選択として語り直す。譲歩を求めるなら、相手が面子を失わずに通れる出口も作る。
和平には、正しい案だけでは足りない。相手にとってそれが敗北に見えるなら、合理性はほとんど説得力を持たない。
人間は合理的な出口を選ぶのではない。自分が負けたように見えない出口を選ぶ。
正しさは、ときに出口を塞ぐ。
ここで変えるべきなのは、制度だけではない。人間が何を神聖視し、何を屈辱と感じるかという物語の重みである。
ただし、これは簡単ではない。「あなたたちが命をかけて守っている物語を、少し軽くしましょう」という提案は、和平案というより挑発に聞こえる。しかも外部の人間が言えば、文化的支配や心理戦として受け取られる。
反戦の工学は万能ではない。
それでも、戦争を止めたいなら、暴力より交渉を得にし、報復より制度を使うほうがましに見え、絶望より未来が計算に入るようにするしかない。
反戦とは、戦争を嫌うことではない。戦争が割に合わない世界を作ることである。
言語、倫理、法、制度、市場は、利害の衝突を身体の破壊以外の方法で処理する仕組みである。だが、これらは無条件には動かない。
資源が減り、国家が弱り、市場が壊れ、法への信頼が失われる。情報空間が部族化し、未来への期待も消える。そのとき、上に積まれていた仕組みが止まり、下にあったものが露出する。
暴力とは、世界の低層言語である。身体を壊し、領土を取り、命令に従わせ、敵を排除する。即効性は高い。副作用は、たいてい次世代まで残る。
暴力は相手を黙らせることはできる。だが、記憶、憎悪、物語、報復欲までは消せない。最終手段ではあっても、最終解決であることはまずない。
だから必要なのは、暴力を見ないふりをすることでも、暴力に酔うことでもない。どの条件で表に出て、どの条件なら引っ込んでいられるのかを、冷たく見ることである。
暴力が嫌いなのは、まあ普通である。私もできれば関わらずに済ませたい。
ただ、嫌いだからといって、なくなるわけではない。こちらが目を閉じても、暴力は「あ、では失礼します」とは帰ってくれない。
暴力は、人間が文明の途中で発明した異常ではない。もっと古い。生き物が自分を守り、外から来たものを退け、必要なら資源を奪う。その延長にある。
言葉や法や制度は、その古い仕組みの上に積み上げた制御層である。普段はよく働く。だが、資源が減り、未来への期待が消え、制度への信頼が崩れると、下の層がまた顔を出す。
反戦とは、その層を呪うことではない。暴力より交渉のほうが得になり、報復より制度を使うほうがましに見え、絶望より未来が計算に入るように、条件を組み替えることである。
平和は、人間が善良になった状態ではない。正義が完全に実現した状態でもない。
解決できない矛盾を抱えたまま、それでも次の日まで殴り合わずに持ち越せる状態である。
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