エッセイ『機能は発現するまで見えない—書籍レビューという未発現機能の生理学』

<要点>

1 機能はモノの中だけにはない。手も石も本も、それ自体だけでは用途が決まらない。キーボード、庭、読者の脳など、環境に置かれて初めて機能が立ち上がる。石ですら、場所を間違えると偶像にも凶器にもなる。

2 読書の価値は、すぐにはわからない。本の情報が何の役に立つかは、未来の文脈に接続されてから発現する。読書とは、まだ用途不明の知的部品を脳内倉庫に沈める作業である。

3 レビューとは、本の投与記録である。レビューは内容紹介だけではない。その本を自分の脳に入れたら何が発火したかを書く行為でもある。著者の主張は成分表、読解は作用機序、思考の暴走は副作用。


1 レビューは本の話をしているのか

そもそもレビューとは何か。多くの人は、本の内容を要約し、良い点と悪い点を述べ、読む価値があるかどうかを判断する文章だと思っている。たしかに、それもレビューである。Amazonの星が一つで「配送が遅かった」としか書かれていないレビューよりは役に立つ。

しかし、それだけがレビューではない。

本を読んだとき、私の中で別の思考が立ち上がることがある。本に書かれている内容をそのまま説明するのではなく、その本が私の脳という環境に置かれたとき、予想外の接続が生じる。別の本、別の概念、別の経験、別の問題意識と結びつき、著者が想定していなかったかもしれない機能を持ちはじめる。そのとき私は、それをレビューとして書く。それは脱線なのだろうか。

ものの機能は、もの自体だけを見ていてもわからない。機能は、対象の内部に初めから固定されているのではなく、環境と文脈の中で発現するからだ。ここを見落とすと、レビューは内容確認だけになる。

2 手は何をする器官なのか

話は変わるが、あなたの手の機能とは何か。つかむこと、殴ること、撫でること、投げること、指差すことか。ここまでは思いつく。だが、キーボードが発明されたあと、手には「タイピングする」という機能が突如現れた。今では、手の重要な機能の一つである。

ピアノがあれば、手は音楽を生む装置になる。メスがあれば、手は手術を行う装置になる。スマートフォンがあれば、手は情報空間を操作するインターフェイスになる。同じ手である。だが、環境が変わると、機能が変わる。手の中に「ピアノ機能」や「スマホスクロール機能」が小さく畳まれて入っていたわけではない。環境との接続によって、その機能が立ち上がったのである。

石も同じである。道端では障害物、建築現場では素材、庭では景観、宗教的文脈では聖物になる。石は変わらない。文脈が機能を変える。落ちていればつまずくもの、拾えば道具、祀れば偶像、投げれば事件である。石は無口だが、文脈はやかましい。

これは過去についても同じである。意味不明な形の土器が出土すると、「祭祀用」とされることがある。もちろん本当に祭祀用だった可能性はある。しかし、そこには便利すぎる箱に放り込んでいる気配もある。機能がわかったというより、当時の環境が失われたために機能を復元できないのかもしれない。形は残る。だが、その形がどの身体、どの習慣、どの空間、どの信仰、どの技術と結びついていたかが失われれば、機能は見えない。考古学者が「祭祀」と言うとき、そこにはしばしば「よくわからないが、ただのゴミと言うには勇気がいる」という人類共通の困惑が沈んでいる。

つまり、機能は対象の中に閉じていない。対象と環境の結合から現れる。

3 解剖学は構造を見る。だが機能は未来に逃げる

この点で、解剖学と生理学の違いを考えるとわかりやすい。解剖学は構造を見る。骨、筋肉、神経、血管がどのように配置されているかを見る。一方、生理学は機能を見る。心臓は血液を送る。肺はガス交換をする。生理学はしばしば「機能の学問」と呼ばれる。

だが、ここに生理学の限界もある。生理学が記述できるのは、多くの場合、すでに発現した機能である。ある構造が、既知の環境、条件、文脈の中でどのように働くかを記述する。しかし、まだ存在しない道具・技術・社会、まだ接続されていない文脈の中で、その構造がどんな機能を持ちうるかまでは見えない。

中世の解剖学者が手を見て、「これは将来、小さな板の上で猫の動画を無限にスクロールる器官になる」と予言しても、たぶん誰にも理解されなかっただろう。

構造だけを見ても足りない。既存の機能だけを見ても足りない。必要なのは、未来の生理学である。つまり、まだ存在しない環境との接続によって、どのような未発現機能が立ち上がるかを考える視点である。

4 本は容器ではなく、脳内に投入される反応物である

本もまた、そのように見なければならない。本を、著者の意図した内容を運ぶ容器としてだけ見るなら、レビューとは内容確認になる。しかし本は、単なる容器ではない。本は、読者の認知環境に投入される反応物でもある。表紙と紙とインクの束が、脳に入った瞬間、なぜか別の本、昔の記憶、専門知識、嫌な経験、妙な比喩、十年前の読書メモなどと結びつく。脳という実験室は、管理が杜撰である。危険物も平気で隣に置いてある。

だから、「本を読んで何の役に立つのか」という問いには、すぐには答えられない。情報の機能は、情報そのものではなく、未来の環境との接続で発現するからである。読書とは、まだ用途の決まっていない素材を、認知環境の中に沈めておく行為でもある。

本を読まないとは、単に知識を得ないことではない。未来の文脈で発現するかもしれない機能を、最初から仕込まないことでもある。もちろん、何でも読めばいいという話ではない。格闘ゲームの細かすぎる戦術知識を大量に蓄えても、プロゲーマーでなければ役に立つ確率は低い。だが、それもゼロではない。いつか「人間社会とはフレーム単位の読み合いである」という謎のエッセイを書くとき、急に昇天するかもしれない。知識の価値は、現在の用途だけでは決まらない。未来の文脈に対する発現確率の問題でもある。

ある読者にとっては、同じ本が入門書として機能する。別の読者にとっては、反論の対象として機能する。さらに別の読者にとっては、過去の知識を再配置する触媒として機能する。同じ本が、ある人には救済になり、ある人には退屈になり、ある人には爆薬になる。この差は、本の中身だけでは説明できない。読者という環境が違うからである。DNAが同じでも、細胞によって発現する遺伝子が違うように、同じ本でも、読者によって発現する意味は違う。テキストは配列であり、読解は発現である。

読書とは、本を脳に置くことだ。その脳には、すでに大量の記憶、概念、経験、傷、快楽、偏見、言語、他の本、過去の会話、時代状況が沈殿している。本がそこに落ちると、反応が起きる。何も起きないこともある。沈黙して終わる本もある。だが、ときどき、本は予想外のものを発火させる。読書とは、脳内に火種を置くことである。燃えるかどうかは、脳内の可燃物しだいである。

5 レビューとは、発火の経路を書くことである

たとえば、ある本は宗教書として書かれている。普通に読めば、その宗教の教義や歴史を説明する本である。しかし、別の認知環境に置かれれば、それは認知科学の素材になり、言語論になり、進化論的な誤作動の記録になり、AI時代の読書論にすらなる。著者がそこまで意図していたかどうかは重要ではない。機能は意図だけで決まらないからである。作者の意図は重要な成分ではあるが、薬効のすべてではない。薬は製薬会社の気持ちだけで効くわけではない。

その発火を記述することも、レビューである。

もちろん、何でもありではない。車にかんする本を読んで突然、夕食の味噌汁について語りはじめれば、それはたぶん本のレビューではない。少なくとも接続経路が見えなければ、ただの脱線である。味噌汁が悪いのではない。経路が見えない味噌汁が悪いのである。

本から取り出された構造が、読者の認知環境の中でどのような機能を持ちはじめたかを書くこともまた、レビューである。本の内容が読者の認知環境に入り、そこから何らかの概念的反応が起き、その経路が追えるなら、それは本の機能の一つを記述している。

薬のレビューを考えてみよう。成分表を説明することもレビューである。しかし、「自分の体内でどう作用したか」を書くこともレビューである。むしろ機能の記述としては、後者のほうが重要な場合すらある。本もまた、知的薬物である。著者の主張は成分表であり、読解は作用機序であり、思考の暴走は副作用である。レビューとは、その投与記録だ。

「この本をこの脳に入れたら、こういう概念が生成された」

それは十分に本の話であろう。少なくとも、配送状況の苦情よりは本の話になっている。

6 誤読ではなく、再文脈化である

そこまで考えると、レビューは単なる評価文ではないような気がしてくる。本が、ある認知環境に置かれたとき、どのような機能を発現したかを記録する文章になるからだ。

本の意味は本の中に閉じていない。手のタイピング機能がキーボードとの関係で現れたように、本の機能も読者との関係で現れる。「それは本の話ではなく、あなたの話ではないか」。その批判は半分正しい。しかし半分浅い。読者の話を完全に排除した本の機能など、ほとんど存在しないからである。本は、読まれて初めて機能する。読まれるとは、特定の脳内環境に置かれることである。ならば、その環境で何が起きたかを記述することは、本の機能を記述することであろう。

本当に面白いレビューは、しばしば本の潜在機能を発見する。本が著者の意図を超えて何に使えるかを示す。読む前には見えていなかった用途を、読後の認知環境から逆照射する。

それは説明書ではなく、発明に近い。

鳥の羽は、最初から飛行のためだけに存在したわけではないかもしれない。保温、表示、バランスなど、別の機能が先にあり、後から飛行へ転用された可能性がある。機能は固定されていない。環境が変わると、新しい機能が現れる。読書にも、同じ転用が起きる。ある時代には宗教書として読まれた本が、別の時代には心理学として読まれる。ある読者には道徳の本として見えるものが、別の読者には認知科学の原型に見える。ある本は、著者の意図ではなく、読者の異常な接続能力によって、まったく別の機能を持ちはじめる。

これは単なる誤読ではない。

誤読とは、正しい意味からの逸脱だと考えられがちである。しかし、意味が対象と文脈の関係から現れるものだとすれば、すべての読解はある程度、文脈依存的である。問題は、正統か異端かではない。その読みが、どれだけ再利用可能な構造を取り出しているかである。浅い誤読は、ただの思い込みで終わる。強い誤読は、新しい機能を発見する。ここでの違いは、自由に読んでいいかどうかではない。接続の配線図を示せるかどうかである。配線図のない誤読はただの漏電である。

7 人間の機能も、本人の中だけでは決まらない

ここで、最初の話に戻る。これはレビューについての話であると同時に、レビューだけの話ではない。

機能は、もの自体に宿っているのではない。ものと環境のあいだに現れる。

ならば、人間の機能もまた、本人の内部だけでは決まらない。ある環境では欠点に見える性質が、別の環境では武器になる。ある時代には過剰に見える思考が、別の時代には必要な感度になる。ある社会では浮いてしまう認知が、別の知的環境では高い情報量になる。空気を読まないことは、空気しか読まない環境では欠陥に見える。しかし、空気そのものを分析する環境では、むしろセンサーになる。

だから「自分には何の機能があるのか」と問うだけでは足りない。今いる場所で機能していないことは、自分の存在そのものが無意味であることを意味しない。それは、まだ発現条件に出会っていないということかもしれない。現在の環境で観測された自分は、存在の最終判決ではなく、一つの実験条件下での測定結果にすぎない。

これは慰めではない。環境に置かれなければ、機能は発現しないという冷たい話でもある。どんなに優れた手でも、キーボードがなければタイピング器官にはならない。どんなに鋭い石でも、文脈がなければただの石である。どんなに奇妙な知性でも、適切な環境に接続されなければ、ただのノイズとして処理される。人類はしばしば、未来の楽器を「変な木片」と呼んで捨てる。

現在の評価尺度は、すでに発現した機能しか測れない。だから、まだ環境と出会っていない機能は、しばしば無能や過剰やノイズとして扱われる。これは、評価する側が悪人だからではない。物差しとはそういうものだからである。物差しは長さを測れるが、「この棒が十年後に杖になるか、槍になるか、神棚に置かれるか」までは測れない。評価は便利だが、近視でもある。

脳や身体の構造は、その人がどのような基盤を持っているかを示すかもしれない。既存の環境で発現した能力は、その人がこれまで何として機能してきたかを示すかもしれない。だが、まだ出会っていない環境でどのような機能が立ち上がるかまでは、誰にも完全には見えない。ここに、機能というものの不穏さがある。そして、未発現の利用可能性もある。

8 レビューとは小さな実験である

ものは、それ自体として完結していない。文脈に置かれて初めて、何者かになる。

だから、レビューとは小さな実験である。本という対象を、自分の脳という環境に置く。何が発現するかを見る。発現したものを記録する。それは本の説明であり、同時に読者の説明でもある。本の機能記述であり、同時に環境の記述でもある。

そして、おそらく多くのものはそうである。

機能は、発見されるというより、発現する。発現するためには、環境がいる。文脈がいる。接続がいる。本も、手も、石も、人間も、最初から用途が決まっているわけではない。

世界は、ものの一覧表ではない。

機能が文脈の中で立ち上がる、巨大な実験場である。われわれはその中で、手を動かし、石につまずき、本を読み、ときどき自分自身の使い道を、かなり遅れて発見するのである。

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