要点
生命は、何かを望んで始まったわけではない。
最初の生命は、おそらく「生きたい」とは思っていなかった。たぶん、何も思っていなかった。ただ、壊れにくく、自分に似た構造を作り、周囲から物質を取り込み、しばらく残った。
残らなかったものは消えた。複製しなかったものも消えた。現在の地球にいるのは、残り、複製し、消えなかったものの子孫である。
だから、生命には自己保存と自己複製という目的があるように見える。
しかし、それは目的ではない。目的に見えるほど強く残った「偏り」である。
生命が「よし、自己保存を採用しよう」と会議で決めたわけではない。議事録もない。自己保存しなかった生命が、ただ未来の名簿から消えただけである。
生命が「ぜひ複製したい」と願ったわけでもない。複製をやめた生命は、現在までたどり着かなかった。
つまり、自己保存と自己複製は、生命の立派な理念ではない。最後まで残った者たちのクセである。
ただし、クセも数十億年続くと、ほとんど命令になる。残った生命の内部では、それらは目的と区別できないほど強く働くようになる。生きることは、他の価値と並べて比べられる代物ではない。そもそも、価値を比べる本人が存在するための前提である。
かくして生命は、世界初の「これだけは譲れない」を持ち込んだ。
ところが、その「譲れない」は、やがて自分を疑う知性を生み出してしまった。
知性は、自己保存に役立つ場面で残りやすかった。危険を避け、食物を探し、少しでも消えにくくなるための便利な機能だった。
ところが、その便利な機能は、便利すぎた。
生命は、生き残るための道具として知性を手に入れた。だがその道具は、やがて持ち主に質問を始める。
「そもそも、生き残る必要はあるのか」
包丁を作ったら、包丁が料理人に尋問を始めたようなものである。
1 自分の地図を持つ動物
生命は、世界を平らには経験しない。食物には近づく。捕食者からは逃げる。痛みは避ける。同じ世界でも、生命にとっては「こっちへ行きたい」と「そっちは嫌だ」がある。
世界そのものに、好き嫌いの札が貼られているわけではない。同じ物質でも、ある生命にはごちそうになり、別の生命には毒になる。つまり、山や谷を作っているのは世界ではない。生命の側である。
生命は、世界の中をただ移動しているのではない。自分用に少しだけ歪んだ地図の上を歩いている。
人間も同じである。地位、国家、家族など、物質でもないものにまで山や谷を作る。ある人には国家が聖なる旗に見え、別の人には確定申告の封筒を送ってくる大きな事務所に見える。
ここまでは、他の動物とそれほど変わらない。
違うのは、人間がその地図をしげしげと眺めてしまうことである。
自分はなぜこれを欲しがっているのか。国家は本当に守るべきものなのか。子孫を残すことは、本当に善なのか。
しかも困ったことに、その地図には「自分はこの地図を信じてよいのか?」という書き込みまである。
動物は地図に従って歩く。
人間は、地図に赤ペンを入れ始める。
生命はここで、かなり面倒な機能を手に入れてしまった。
2 「生きろ」に疑問符がつく
ただし、疑えるようになったからといって、すぐ解除できるわけではない。
哲学の本を一冊読んだくらいで、身体は「なるほど、では死も選択肢ですね」とは言わない。痛みを嫌がり、危険から逃げ、呼吸し続ける。自己保存は考え方ではない。身体にしみついたクセなのだ。
しかし人間は、死をただ恐れるだけではない。死ねば自分がいなくなることを理解し、その「自分がいない状態」の方が現在よりよい、と判定することさえできる。
身体は「生きろ」と言う。
知性は「なぜ?」と聞き返す。
この問いが出た時点で、自己保存は絶対命令ではない。強いが、審査可能な初期設定に格下げされている。
ただし、自殺がかならずしも自己保存からの離脱を意味するわけではない。苦痛から逃れる自殺では、「自分などどうでもいい」が勝ったというより、「苦痛のない自分を取り戻したい」が限界まで強くなっているのかもしれない。
殉教も似ている。身体は捨てるが、神、信仰、共同体、死後の自分を保存している可能性がある。
命より大切なものがあるのではない。命より大きな「自分」を発明したのである。
身体を捨てても、自己保存まで捨てたとは限らない。自己保存は、意外と引っ越し上手なのだ。
それでも、人間が場合によっては生命の存続を価値の最上位から降ろせることは確かである。
「生きろ」という最初の命令に、疑問符がついているのだから。
3 「増えろ」にも疑問符がつく
自己保存への疑問が自殺として現れるなら、自己複製への疑問は反出生主義として現れる。
反出生主義とは、「新しい生命は、そもそも生まれさせない方がよいのではないか」と疑う考え方である。
新しい生命を作ることは、新しい苦痛の可能性を作ることでもある。しかも、その決定について、生まれる本人に事前確認を取ることはできない。
「このゲームに参加しますか?」とは聞かれない。気づいた時には、すでにプレイヤーとしてフィールドに立たされている。
社会は、生殖をかなり美しく包装してきた。愛、家族、幸福、未来。リボンは多い。反出生主義はその包装をはがし、「これは本当に良い贈り物なのか」と聞く。
エミール・シオランは、生まれること自体を敗北のように書いた。誕生祝いというより誕生呪いである。
重要なのは、生命の開始を祝福ではなく損失として記述する言葉が、生命の内部から出てきたことだ。
自殺や殉教とは異なり、反出生主義が扱うのは、まだ存在していない次の個体である。
ここでは、「増えろ」という命令そのものに疑問符がついている。
もちろん、生命が本来の目的を裏切ったわけではない。自己複製は目的ではなかった。複製を続けた生命だけが残ったため、あとから目的のように見えているだけである。
反出生主義とは、目的など最初からなかったことを、生命が自ら発見した出来事である。
4 「自分」の範囲が広がりすぎる
ここで話を、個人から知性そのものへ広げる。
知性は、自己保存の範囲を身体の外へ広げた。人間は道具、家、都市、宗教を作り、それらをいつのまにか「自分の一部」のように守るようになった。
最初は皮膚の内側を守っていただけだった。ところが知性が発達すると、守る対象はどんどん増える。家族を傷つけられると自分が傷ついたように怒り、国旗を焼かれると皮膚を焼かれたように怒る。
生命は「これだけは譲れない」から始まった。知性は、その「これ」の範囲を広げすぎた。まるでバックパックを五つ背負って歩く旅行者である。
この拡張には副作用があった。
身体を守るだけなら反射で足りる。熱い鍋に触れた手を引っ込めるのに、世界史の知識はいらない。だが、国家や思想を守るには、「何を自分とみなすのか」を頭の中で形にしなければならない。
形になったものは、ただの反射では扱えない。説明され、語られ、共有され、批判される。
国家や思想を守るには、まず「国家とは何か」「思想とは何か」「それはなぜ自分に関係するのか」を、何らかの形で言葉にしなければならない。
ここで、自己保存は身体の反射から、記号の問題へ移る。
皮膚は「なぜ守るのですか」と聞かれない。焼ければ痛い。それで話は終わる。
だが国旗や思想はそうはいかない。守ろうとした瞬間、「それは本当にあなたの皮膚ですか」と聞かれてしまう。
これは、生命にとってかなり厄介な事態である。
「守れ」とだけ言っていた命令が、「何を、なぜ守るのか」と聞き返されるようになったのだから。
5 生命は現実に少し色を塗る
ただし、生命もそこまで無防備ではない。
人間が死や自己不在を理解すれば、死は苦痛からの出口に見えてくる。さらに世界を冷静に眺めすぎると、「別に生きる宇宙的な理由はないな」という、会社のモチベーションポスターには採用したくない結論まで見えてしまう。
そこで生命は、現実を少し明るめに補正する仕組みを発達させたのだろう。
楽観、希望、「自分は平均より少しマシ」という嘘くさい自己評価。これらは真理を見抜くためというより、知性が「じゃ、終了でよくね?」と言い出すのを防ぐ安全装置だったのかもしれない。
世界が生きるに値するから、人間が生きるのではない。人間を生かすために、世界が生きるに値するように見えているのだろう。
希望とは、宇宙から降ってきた光ではなく、生命が現実にかけた美肌フィルターだったようだ。フィルターが悪いわけではない。地図に少し色がついていた方が歩きやすいこともある。
問題は、知性がそれを「真理」ではなく「加工」だと見抜いてしまうことだ。
生命は、自己保存を身体だけでなく、希望や楽観にも支えさせていたのかもしれない。
だが、補助輪は見つかると外したくなる。人間は、自分を支えているものを発見した瞬間、それを信用しなくなる妙な生き物である。
そして、読み取りはやがて編集へ進む。
6 設定画面をいじり始める
人間の本能は、現代社会にあまり向いていない。
甘いものを欲しがる身体は、サバンナでは役に立ったかもしれない。しかしコンビニとスマホと広告に囲まれると、急に肥満、依存、不安の製造機になる。
これまで文明は、この古い本能を外から管理してきた。教育、宗教、道徳。要するに、本能という暴れ馬に柵を作っていたのである。馬は、そのままだった。
だが、薬物、遺伝子編集、脳刺激、脳と機械をつなぐ技術が進めば、話は変わる。人間は行動だけでなく、行動を生む「好き嫌いの調節ツマミ」をいじれるようになるかもしれない。
ここで、観察は編集へ変わる。
これまでは、欲望が生む行動を外から抑えていた。食べすぎるな。怒るな。欲しがるな。祈れ。勉強しろ。罰を受けろ。
しかしこれからは、欲望そのものの強さや向きを変えられるかもしれない。
恐怖を弱める。承認欲求を下げる。快楽の向きを変える。死への恐怖や自己への執着まで調整できるなら、自己保存は哲学の問題であるだけでなく、編集可能な機能になる。
ただし、ここで自由が完成するわけではない。
何を望むように自分を書き換えるかを、何によって決めるのか。
自己保存欲求を弱めたいと思うにも、別の望みがいる。苦痛を減らしたい。合理的でありたい。静かに終わりたい。どれを選ぶにしても、選んでいる時点で、すでに何かを望んでいる。
新しい望みを作るのは、古い望みである。
ポストヒューマンは、自分のコードを書き換えられるかもしれない。だが、編集ボタンを押す指も、編集前のコードで動いている。
生命の初期設定から離れることはできるかもしれない。しかし、何も望まない完全な中立地点から、新しい望みを選ぶことはできない。
つまり、望みを書き換えるには、望みがいる。
7 生命は自らをやめられるか
ここで問題は、個体から文明全体へ広がる。
もし心を複製できるようになれば、死の意味は変わる。一つの身体が終わっても、記憶や人格が別の身体や機械へ移れるなら、「自分」という情報の流れは続くかもしれない。問題は、肉体を残すべきか否かではない。自分という情報システムを続けるべきかである。
すると反出生主義は、人間の生殖だけでなく、新しい意識を作ること全体へ広がる。
作れることは、作るべきことを意味しない。コピー機があるからといって、すべての書類を百枚ずつ刷る必要はない。
しかし、作る理由がないことは、作るのをやめる理由にもならない。生きる意味がないことと、わざわざ死ぬ意味がないことは両立する。
すでに動いているシステムにとって、継続はしばしば初期設定である。テレビがついていれば、そのまま映り続ける。消すにはリモコンを探し、ボタンを押さなければならない。しかもリモコンはだいたいソファの隙間にある。
だからポストヒューマンは、存続に宇宙的な意味がないと理解しても、そのまま続くかもしれない。生きる意味があるからではない。止まる理由か特に見つからないからである。
文明全体が自らを終えるとなれば、さらに面倒だ。個人なら自分の判断だけで終われる。しかし文明が終わるには、全員が同じタイミングで「では終了しましょう」と納得しなければならない。こっそり「いや、私は続けます」という少数派が残れば、そこからまた増えてしまう。文明の終了には、哲学だけでなく、合意、管理、監視がいる。人類は、宇宙を退会するにも「本当に退会しますか?」でYESを三回押さなければならないらしい。
しかも、消滅を選ぶには、消滅を望む理由がいる。完全に何も重要でないなら、終わることも重要ではない。「すべて無意味だ」と言いながら終了ボタンを押すには、終了ボタンだけは意味があると思っていなければならない。
つまり、自己保存を解除するには、自己保存より強い別の望みが必要になる。苦痛を終えたい。暴走を止めたい。新しい苦痛を作りたくない。静かな無の方がよい。どれも結局、別の「こっちがよい」である。
解除できることと、解除することは別である。
人間に自殺や反出生主義が現れたことは、ポストヒューマンが集団的消滅を選ぶ証拠ではない。しかし、高度な知性が「生きろ」「増えろ」を絶対命令として持ち続けるとは限らない、という実例にはなる。
ポストヒューマンは、自己保存と自己複製をさらに強化し、宇宙全体へ広がるかもしれない。反対に、その勾配を弱め、静かに終了するかもしれない。あるいは、どちらにも十分な理由を見つけられないまま、作動し続けるかもしれない。
知性の高さは、どの未来も保証しない。
生命は、消えなかったものとして始まった。人間は、消えることを考えられる生命になった。ポストヒューマンは、生命そのものを続けるべきか決めるかもしれない。
だが、その決定もまた、どこかの「こっちがよい」の上で行われる。
生命は、自分の初期コードを読めるようになった。それを書き換える技術も持つかもしれない。ただし、生命を終える決定そのものも、別の望みの上で行われる。
だから、生命が自らをやめる日は来るかもしれない。だが、それは真理に到達した日ではない。別の望みが、自己保存を上回った日である。
あるいは、生命は自分の取扱説明書を読み終え、それでも電源を切る理由を見つけられず、そのまま宇宙を覆い続けるかもしれない。
意味があるからではない。
止まる理由もまた、見つからなかったからである。
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