エッセイ『科学とは宇宙の翻訳である——人間の認知石器と、AIだけが理解する真理』

 

 

<要点>

  1. 科学とは、宇宙の真理をそのまま露出させる営みではない。自然現象を、人間が扱える言語、数式、図、因果、モデルへ翻訳する、最も高性能な認知石器の一つである。
  2. 科学は強い。予測し、操作し、技術を生み、壊れれば更新される。しかし、その強さは宇宙そのものを写しているからではなく、自然を人間可読な圧縮形式へ変換できるからである。
  3. AI時代には、人間には理解不能だが、AIには予測・操作可能な自然理解が現れるかもしれない。そのとき、「人間に理解できない真理は真理なのか」という問いが発生する。

 

科学者の多くは、自分たちが宇宙の真理を明らかにしていると思っている。

その感覚は、完全には間違っていない。

科学は強い。神話より強い。物語より強い。祈りより強い。星の運動を予測し、感染症を制御し、半導体を作り、原子炉を作り、人工知能まで生んだ。自然との接触に耐え、予測し、操作し、技術へ変換される。これほど強力な認識形式を、人類はほとんど持ったことがない。

だから科学者が「われわれは真理に近づいている」と感じるのは自然である。

だが、ここで一つ問いを置く必要がある。

科学は、本当に宇宙の真理そのものを明らかにしているのか。それとも、宇宙を人間が扱える形へ翻訳しているだけなのか。より露骨に言えば、科学とは、宇宙を人間が咀嚼できる粒度まで噛み砕く行為ではないのか。

自然現象は、すでに存在している。星は、ニュートン力学の前から動いていた。光は、マクスウェル方程式の前から伝わっていた。電子は、量子力学の前から振る舞っていた。生命は、ダーウィンの前から複製と淘汰を繰り返していた。DNAは、ワトソンとクリックの前から情報を複製していた。

では、科学は何をしているのか。

宇宙に何かを追加しているのではない。自然現象を、人間が読める形式に変換しているのである。言語、数式、図、モデル、因果、法則、予測、論文、教科書へ。

科学とは、宇宙の翻訳である。

ただし、ここでいう翻訳とは、単なる言い換えではない。それは、自然現象を人間の認知石器で扱える形へ圧縮することである。

認知石器とは、人間の認知を補助し、拡張し、世界を扱える形へ切り出す道具のことである。言語、数式、図、因果、分類、単位、座標、モデル、そして「力」「粒子」「場」「エネルギー」「情報」「遺伝子」「種」「選択圧」「疾患」「リスク」といった概念は、すべて認知石器である。

科学は近代の産物である。だが、それを動かしている脳は近代の産物ではない。人間の脳は、宇宙の真理を読むためではなく、獲物、敵、仲間、配偶者、危険を読むために進化した。その古いOSの上で、人間は概念を削り出し、組み合わせ、宇宙を人間可読な形へ変換している。だからここでは、それらを認知石器と呼ぶ。

自然科学とは、事実に対するもっとも単純な概念的表現を探す営みだとも言える。つまり科学は、自然をそのまま持ってくるのではなく、人間が扱える形式へ圧縮する翻訳技術である。

この圧縮は粗い。だが、粗いからこそ使える。

地図は地形そのものではない。だが、地図がなければ歩けない。数式は自然そのものではない。だが、数式がなければ予測できない。モデルは宇宙そのものではない。だが、モデルがなければ操作できない。

問題は、道具を宇宙の最終構造と取り違えることである。

「力」や「粒子」は便利である。だが、それらは自然そのものなのか。それとも、人間の理解に合わせた翻訳形式なのか。「遺伝子」や「種」も便利である。だが、それらは生命現象の連続性を、人間が扱える粒度で切り出した操作単位ではないのか。「病気」という語も同じである。身体内の連続的な変化を、人間社会が介入可能な単位として切り出したものではないのか。

科学は、自然現象をそのまま持ってくるのではない。自然現象を、人間の操作可能な語彙へ翻訳する。

翻訳である以上、必ず何かが落ちる。どんな翻訳も、原文そのものではない。英語を日本語に訳せば、音、語感、文化的含意、曖昧さ、文法的圧力の一部が失われる。だが翻訳しなければ、多くの読者には届かない。科学も同じである。自然を科学へ翻訳すれば、自然の細部は落ちる。しかし翻訳しなければ、人間には使えない。

だから科学は、自然の完全な鏡ではない。自然と人間認知のあいだに作られた、高性能な翻訳インターフェースである。

この見方は、科学を貶めるものではない。むしろ、科学の強さを正確に見るためのものである。

科学は、現実操作の道具としてきわめて強い。なぜなら、科学の翻訳は現実との接触で壊れるからである。観察、実験、予測、再現性との接触で壊れ、壊れたときに修正される。壊れない説明は、一見強い。しかし、それは更新不能であることの裏返しでもある。

科学は、信じるための体系ではない。疑い、検証し、壊れた翻訳を更新する制度である。批判を許さない科学は、科学ではない。科学の言葉をまとった信仰である。

科学もまた、世界を扱うための操作モデルである。その意味では幻想である。ただし、嘘や妄想ではない。現実との接触に耐え、壊れたときに修正され、技術へ変換できる、人類史上もっとも高性能な幻想の一つである。

科学理論は停止点である。ただし、移動可能な停止点である。

ニュートン力学は強かった。だが、光速に近い世界や強い重力場では修正された。古典力学は消えたのではない。適用範囲を限定され、相対性理論や量子力学の中に位置づけ直された。

科学の強さは、破綻しないことではない。破綻を検出し、更新できることにある。科学は壊れるから修正される。仮説であるから増殖する。翻訳であるから改善できる。人間の認知石器であるから研ぎ直せる。

ここでさらに深い問題がある。

観察結果が世界の真の姿そのものなのか、人間には原理的にわからない。

われわれは測定器を使い、数値を得て、統計処理し、論文を書き、専門家共同体がそれを認める。科学の信頼性は、宇宙の外側に立って正解を覗いたことに由来するのではない。観察、測定、解釈、批判、再現、合意という手続きに支えられている。

つまり、人間が扱う「事実」は、すでに翻訳済みの事実である。自然そのもの、測定された自然、解釈された自然、論文化された自然、教科書化された自然。これらは同じではない。科学は、自然そのものを直接つかむのではない。自然を測定可能にし、解釈可能にし、共有可能にし、操作可能にする。

科学は、宇宙の完全なコピーではない。人間共同体が信頼できる手続きで作る、宇宙の高性能な翻訳である。

科学には得意な対象と不得意な対象がある。測定でき、数値化でき、比較でき、反復できるものは科学に乗りやすい。逆に、一回性、主観性、意味、痛み、死の実感、歴史的偶然のようなものは、科学に乗せるために多くを削らなければならない。

科学が無力なのではない。科学が強くなるためには、対象を止め、切り、測り、比較し、再現可能にする必要があるからである。科学は対象を止めることで強くなる。しかし、止めた瞬間、流れていたものの一部は失われる。

心を科学にするには、心を止めなければならない。社会を科学にするには、社会を止めなければならない。生命を科学にするには、生命を切らなければならない。宇宙を科学にするには、宇宙をモデルに落とさなければならない。

この停止が悪いのではない。停止しなければ、扱えない。切らなければ、測れない。測れなければ、予測できない。予測できなければ、操作できない。

だが、停止したものを、流れている世界そのものだと思い込むと、錯覚が始まる。

科学は、宇宙を停止させる技術である。そして、その停止点を移動し続ける技術でもある。

ここで問題が生じる。

科学が自然の翻訳なら、翻訳できない自然現象はどうなるのか。

人間の言語に乗らないもの。人間の数式に乗らないもの。人間の図にできないもの。人間の因果直感に合わないもの。人間の実験設計に入らないもの。人間の測定器に現れないもの。人間の注意が問題として切り出せないもの。

それらは存在しないのか。

おそらく、そうではない。

それらは、存在しないのではない。人間の認知石器では、問いとして形成されにくいのである。

人間は、自分が問えるものを世界だと思いやすい。測れるものが現実であり、数式化できるものが科学であり、論文に書けるものが知識であり、再現できるものが現象であり、共有できるものが真理である。だが、それは本当に宇宙の条件なのか。それとも、人間共同体の認知条件なのか。

科学は、宇宙全体を照らしているわけではない。人間が持つ光で照らせる範囲を、きわめて精密に測量している。その測量は偉大である。しかし、光の外側が消えたわけではない。

ここでAIが現れる。

AIは、人間とは違う形式で情報を圧縮する。違う次元でパターンを拾う。人間には見えない相関を見つける。人間には説明しにくい特徴量を使う。人間が因果や物語として理解する前に、予測だけを成立させる。

すでにその兆候はある。

たとえばタンパク質構造予測では、AIが人間の直観や古典的な説明を迂回して、巨大な配列空間から構造を予測する。創薬や材料探索でも、人間には意味づけしにくい高次元の特徴量が、候補の発見に使われ始めている。大規模言語モデルもまた、内部で何をどのように表現しているのか、人間の概念に完全には還元できない。

モデルは当たる。だが、人間にはなぜ当たるのかよくわからない。これは序章にすぎない。

人間が「理解」と呼ぶものは、膨大な情報を脳に扱える形へ咀嚼することである。複雑なデータから、重要そうな部分を抽出する。次元を減らす。特徴を選ぶ。図にする。言葉にする。数式にする。人間の脳が見渡せる形にする。

これを人間は、理解と呼ぶ。

だが、その咀嚼の過程で捨てた部分にこそ、核心となる構造が含まれているかもしれない。人間にとって無意味に見えるデータ。人間がノイズとして落とした情報。人間が高次元すぎて扱えない相関。人間の概念に戻せないパターン。人間の言語では名づけられない構造。その中に、自然の核心があるかもしれない。

人間のデータマイニングは、人間の脳にとって意味のある抽出である。だが、宇宙が人間の抽出基準に合わせてできている保証はない。

AIは、人間のようにデータを咀嚼しなくてもよいかもしれない。十億個並んだ数字を、人間が図や概念に落とす前に、AIはそのまま処理するかもしれない。人間が「意味がない」と捨てた生データの中から、AIは規則性を拾うかもしれない。人間が「説明できない」と呼ぶものを、AIは操作可能な構造として扱うかもしれない。

ここで問いは一つに収束する。

人間に理解可能であることは、真理の条件なのか。

近代科学は、人間共同体の中で共有可能な説明を重視してきた。論文があり、数式があり、図があり、実験手順があり、再現性がある。科学とは、自然現象を人間共同体に共有可能な形式へ翻訳する制度でもあった。

だが、AI時代にはこの前提が揺らぐ。もしAIが、人間には翻訳不能だが、自然を正確に予測し、操作し、設計し、AI同士で共有できる構造を扱えるようになったら、それは科学なのか。それとも、単なる予測装置なのか。

人間中心主義なら、こう言うだろう。人間が理解できないものは、科学ではない。科学は、人間の理性に開かれていなければならない。この態度には意味がある。科学は社会制度でもある。人間が検証し、批判し、教育し、合意し、責任を持つ必要がある。人間に理解不能なAIの判断だけで世界を動かすことには、危険がある。

だが、非人間中心主義なら、別の答えになる。人間に理解可能であることは、真理の条件ではない。それは人間側の翻訳制約にすぎない。宇宙は、人間に理解されるために存在しているわけではない。

この答えは冷たい。だが、おそらく正しい。

人間は長いあいだ、自分の認知形式を宇宙に投影してきた。神は人間の顔をしていた。自然は人間の物語に従っているように見えた。進化は人間へ向かう階段のように語られた。善悪は宇宙の構造のように扱われた。そして科学ですら、ときに「人間が理解できる形で宇宙の真理が開示される」という幻想を持っている。

だが、宇宙は人間の理解に配慮しない。人間にわかる真理だけが真理であるという考えは、最後の人間中心主義かもしれない。

ここで科学者は不快になるかもしれない。「AIのブラックボックスは説明ではない」「理解できない予測は科学ではない」。そう言いたくなるだろう。その反論には、制度上の正しさがある。人間社会の中で使う以上、説明責任、検証可能性、共有可能性は必要である。

しかし、それは人間社会の条件であって、宇宙側の条件ではない。

もしAIだけが理解できる構造があり、それが自然を正確に予測し、操作し、再現可能で、AI間では共有可能であるなら、それは人間にとって不透明でも、宇宙に対しては有効である。

このとき、人間は屈辱を受ける。科学の中心から、人間の理解可能性が追い出されるからである。

これまで科学は、神を追放した。次に科学は、人間を特別な存在から引きずり下ろした。地球は宇宙の中心ではなかった。人間は創造の頂点ではなかった。意識も自由意志も、特別な霊的実体ではなさそうだった。そしてAI時代には、科学そのものから人間の理解可能性が追放されるかもしれない。

人間は、宇宙を理解する存在ではなかった。人間は、宇宙を人間にわかる形へ翻訳している存在にすぎなかった。そして、その翻訳は雑だった。ただし、雑だから無価値なのではない。雑だから使えるのである。

人間の科学は、宇宙の完全な複製ではない。だが、人間が宇宙と関わるための、きわめて優れた翻訳形式だった。

AIは、その翻訳形式をさらに変える。人間科学は、人間可読性、説明、概念、論文、教育可能性を要求する。だがAI科学は、それらを必ずしも必要としないかもしれない。人間語に戻せない内部表現を使い、AI同士でモデルを交換し、説明より先に予測と操作を成立させる。そのとき科学は、人間の共同体から完全には消えないが、人間の理解可能性を中心条件とはしなくなる。

人間は翻訳を要求するだろう。「それを人間にわかるように説明せよ」。だが、すべてが説明できるとは限らない。人間に説明するとは、AIの理解を人間の認知石器へ落とすことである。その瞬間、また劣化が起きる。宇宙からAIへ。AIから人間へ。その二重翻訳である。そして、人間に戻した瞬間、最も重要な構造が失われるかもしれない。

それでも人間は、説明を求める。なぜなら、人間は理解したいからである。いや、より正確には、理解したと思える停止点が欲しいからである。

科学とは、宇宙の真理そのものではない。宇宙を、人間が歩ける地図へ変換する営みである。その地図は偉大だった。だが、地図は地形ではない。これからAIは、人間には読めない地図を作り始めるかもしれない。

そのとき人間は、初めて本当の意味で問われる。真理とは、人間に理解できるものでなければならないのか。もし答えが「いいえ」なら、科学は人間の手を離れ始める。

そしてそのとき、科学者は気づくことになる。自分たちは宇宙の真理をそのまま見ていたのではない。宇宙を、人間の認知石器へ翻訳していたのだ。その翻訳は美しかった。強力だった。世界を変えた。だが、翻訳は翻訳である。

人間そのものがAIへ変われば話は別である。だが、そのとき残っているものを人間と呼ぶ理由はどれほどあるのか。

宇宙は、人間語で書かれているわけではない。そしてAIは、その人間語すら必要としないかもしれない。

 

 

 

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