エッセイ『空洞の工学—幻想が人間を動かす仕組み』

要約

1.

神も国家も人権も、石ころのような物理的実体ではない。だが人を祈らせ、税を取り、裁判を起こし、時には死なせる。幻想は、いわば空洞を住処にした管理職である。

 

2.

レムの「存在しない本の書評」に読後感が生まれるように、社会にも存在しない中心が立ち上がる。語りが厚くなると、そこに忠誠や怒りや税金が発生する。

 

3.

空洞は、完全に塞げばよいわけではない。放置すれば陰謀論が入居し、埋めれば想像力が入れない。必要なのは、科学のように、換気扇のある、よく管理された空き部屋である。

 

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  1. 空洞は、何も生まない場所ではない

神、国家、人権、貨幣などが石ころのような物理的実体ではなく、人間の共有された想像、制度、言葉によって支えられた観念であることは、べつに珍しい指摘ではない。デュルケーム、ベネディクト・アンダーソン、ユヴァル・ハラリらが、この問題を扱ってきた。

私は、それらを幻想と呼ぶ。
ただし、幻想であるからといって、ふわふわ浮いているだけの無害な綿あめではない。

神は人を祈らせる。国家は税を取りに来る。人権は裁判所で振り回される。貨幣は、ただの紙や数字のくせに、人間を朝から晩まで働かせる。

ここでいう空洞とは、物理的な穴ではない。人間が意味を必要とするのに、単一の物体や定義では完全に埋められない中心のことである。幻想は、その空洞に流し込まれ、人間の行動に影響する。

この文章で見たいのは、なぜ実体を持たない空洞が、人間をここまで動かせるのかである。空っぽのくせに管理職みたいな顔をしている、その仕組みを見たい。

 

  1. 存在しない本の書評

ポーランドの作家スタニスワフ・レムの『完全な真空』には、存在しない本の書評が並んでいる。

本はない。だが、その本についての批評はある。文体、構成、思想、文学史的位置づけが語られる。そもそも存在していないのに、妙に読後感だけが発生する。

これは社会の本質を突いている。

普通は、対象があるから言葉が生まれると思われている。本があるから書評がある。神がいるから神学がある。国があるから法律がある。

しかし実際には、言葉が対象の居場所を作ることがよくある。

対象について語る言葉が増え、儀礼や制度がそれを補強すると、人間はその対象があるかのように行動し始める。存在しない本に読後感が生まれるように、存在しない中心にも忠誠や怒りや税金が発生する。

人間社会の大部分は、書評だけで作られた本棚である。

  1. 「ある/ない」は二値ではない

ここで「ある」と「ない」の分け方を疑ったほうがよい。

たとえば机や石や肝臓は、モノとしてある。しかし、人間を動かすものの多くは、この種類の存在ではない。

貨幣の価値は、紙の繊維に宿っていない。国家も物体ではない。だが、それらは制度、教育、記録、信用のネットワークとして作動し、人間の行動を制約する。

つまり、共有され、保存され、予測され、人間の行動を変えるなら、それは「ある」。もっと正確にいえば、「あるものとして扱わされる」。

だから「無」は、単なる欠如ではない。

むしろ、「ある」と思っていたものを近くで調べると、物体そのものではなく、関係や情報や制度の束だったとわかることがある。そのとき、本体らしきものは消える。しかし、人間を動かす働きまでは消えない。

神も国家も人権も、物体としては存在しない。空洞である。しかし、その空洞のまわりに言葉と制度が積み上がると、人間を動かす幻想になる。何もないはずの場所から、祈りや税金や裁判が出てくる。

空洞というのは、じつに騒がしい。空洞だからこそ、音はよく響く。

  1. 空洞は幻想の受容体である

空洞とは、このように実体がないにもかかわらず、そのまわりに言葉や制度が集まり、人間の行動を組織する場所である。

空洞は、何もないからこそ多くのものを吸い込める。

机は、どれだけ立派でも机である。せいぜい上に本を置かれるか、足の小指をぶつけた人間に恨まれるくらいである。

だが国家は、税にも福祉にもパスポートにも徴兵にもなる。人権は、保護にも告発にも介入にも正当化にもなる。

物体はだいたい用途が狭い。空洞を中心にした幻想は、人間の願望や恐怖を吸い込むので、やたら多機能になる。

中心が完全に固定されていないからこそ、言説が増殖する。

普通は、中身があるものほど強いと思う。だが、大規模に人間を動かす幻想は、中身に余白を持っている。定義が細かすぎると、人は自分の願望を流し込めない。境界が明確すぎると、解釈の幅が狭くなる。

反対に、名前があり、記号があり、儀式があり、中心があるのに、定義が確定していないものほど、多くの人間の恐怖や希望を受け止める。

この構造は、宗教にも遊びにも見える。初期仏教美術では、仏陀はしばしば空の玉座で示された。ユダヤ教の過越祭では、エリヤのための杯や空席が置かれる。サッカーでは、中空の球のまわりを選手と観客と国家と資本が走り回る。中心に詰まった実体があるから人間が動くのではない。空いているからこそ、祈り、記憶、期待、熱狂がそこへ流れ込む。

空洞こそ、幻想の受容体にふさわしい。空っぽだからこそ、みんなが勝手に意味を持ち込んでくる。

  1. 危険なのは、空洞そのものではない

重要なのは、その幻想がどの空洞を占拠しているかである。

宗教は、死と不安の空洞を占拠する。国家は、所属と犠牲の空洞を占拠する。市場は、価値配分の空洞を占拠する。

人間は、空洞を放置できない。

自分は何のために生きるのか。何を恐れるべきか。何に従うべきか。こうした問いの中心には、空洞がある。人間はその空洞の前で立ち止まれない。何かを入れる。国家を入れる。成功を入れる。ときには陰謀論を入れる。空き部屋に、いきなり変な観葉植物と壺を置きはじめる。

空洞は、意味の空き部屋である。

空き部屋は、管理しなければ何かに占拠される。だいたい最初に入ってくるのは、感じのよい哲学ではない。もっと声の大きいもの、もっと説明が簡単なもの、もっと敵を指差してくれるものが入ってくる。

危険なのは、空洞そのものではない。監査されない空洞である。換気されず、点検されず、鍵も開けっぱなしの空洞である。

 

  1. 空洞を全部塞いではいけない

では、空洞は危険だから、全部埋めてしまえばよいのか。

もちろん、そうはいかない。

空洞は消えない。人間が意味を必要とする以上、空洞は必ず発生する。死、未来、共同体、自己価値、正義、愛、知性のまわりには、必ず埋まらない隙間が残る。

しかも、空洞は危険な幻想の棲み家であると同時に、創造の発生源でもある。

まだ存在しない制度、神話、自己像、生き方などは、空いている場所にしか生まれない。満室のアパートに未来は入居できない。

人間が想像するには、空白が必要である。

記憶だけで埋まった場所には、想像力が入り込む余地がない。創造とは、欠落を利用する力である。空いているから、仮説や比喩や別の未来が入る。場合によっては、かなり変な思想も入る。

だから、良い空洞管理とは、危険なものが住みつかないように点検しながら、なお創造のための余白を残すことである。

  1. 修理できる幻想

幻想は、自分が空洞に宿っていることを隠しがちだ。たいていの幻想は、玄関に「私は幻想です」とは書かない。そんな正直な看板を出したら、信者も兵士も納税者も少し困るかもしれない。

重要なのは、修理できるかどうかである。

科学は、比較的ましな空洞管理の一例である。科学もまた、「真理」という完全には埋まらない中心を持つ。しかし、仮説、反証、査読、再現性、修正可能性という手続きによって、中心を換気している。もちろん、科学者も人間なので、ときどき窓を閉め切って変な匂いを出す。しかし少なくとも、「反証可能性」という名の換気扇がついている。この点で科学は、修理可能な空洞管理だといえる。

私が考える良い空洞とは、壊れたときに修理できる、このような空洞である。

 

  1. 理想的な空洞の工学

ここで、幻想工学を考える意味が出てくる。つまり、幻想であると知りながら、幻想を設計する技術である。空洞であると知りながら、空洞を管理する。価値は、空洞に流し込まれ、人間を動かす形式として設計可能なものであると考える。

たとえば国家という空洞装置が、誰を守り、誰を殺し、誰に税を払わせ、誰に旗を振らせるかを設計する。

問うべきは、どの空洞が、どの言葉によって占拠され、どの制度によって補強され、どの方向へ人間を転がしているのかである。

レムの存在しない本は、存在しないまま読者の内部に立ち上がる。神も、国家も、人権も、貨幣も、成功も、承認も、同じように作動する。

中心には、空洞がある。

しかし、そのまわりに言葉と制度と欲望が積み上がる。やがて空洞は、真空のまま人間を動かし始める。

幻想は実体に宿らない。幻想は空洞に宿る。

だから、人間を動かすものを理解したければ、まず空いている場所を見なければならない。誰がそこに意味を流し込んでいるのか。その空洞は人間をどこへ転がしているのか。その幻想は暴走したときに止まれるのか。壊れたときに修理できるのか。こうしたことを考える必要がある。

空洞を放置しない。埋め尽くさない。何を住まわせるかを設計し、暴走したら修理できるようにしておく。そして、まだ存在しないものが生まれる余白を残す。

これが、理想的な空洞の工学である。

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