エッセイ:怪物という翻訳装置—帰国子女はフランケンシュタインである

<要約>

怪物とは恐怖の対象ではなく、社会が抱える不安や矛盾を可視化する翻訳装置である。多くの怪物は境界に現れ、社会の分類や秩序の限界を示す。フランケンシュタインは境界の個人、ゴジラは核時代の文明不安、ゾンビは群衆の比喩だ。社会は理解しにくい存在に怪物のラベルを貼ることで不安を処理してきたが、怪物が不足すると現実の人間がその役割を引き受ける。SNSはその過程を加速する装置でもある。

 


 

怪物とは単なる恐怖の対象ではない。むしろ社会が抱える曖昧な不安や矛盾を、目に見える形へ翻訳する装置に近い。人間は抽象的な問題をそのまま扱うのが苦手だ。社会の緊張や矛盾は、そのままでは姿を持たない。例えば「文明の不安」とか「近代性の矛盾」とか言われても、普通の人は五秒くらいでスマホを見始める。だからそれらは人格化され、身体を与えられ、怪物として現れる。怪物とは、社会が自分自身の問題を「読める形」に翻訳した結果として生まれる存在なのである。言ってしまえば、怪物は社会学の図解版だ。しかも多くの場合、論文よりよく売れる。

多くの怪物は「境界」に生まれる。人間と動物、自然と文明、内と外。こうした区分が曖昧になるとき、怪物は姿を現す。社会がうまく分類できない存在は、たいてい怪物として処理される。分類できないものを理解するのは面倒だからだ。

人間は言葉によって現実を切り分ける。だが現実は、言葉の側が期待するほど従順ではない。日本人と外国人、内部と外部、正常と異常、人間と怪物。そうした分類は世界を扱いやすくするが、同時に必ず切断面を生む。そして流動的な現実は、その切断面から漏れ出してくる。問題は、その漏れ出したものを見たとき、人間が「分類のほうが粗い」とはなかなか考えないことだ。むしろ「こいつがおかしい」と考える。そこに新しいラベルが必要になる。しかしそのラベルは、純粋な認識欲から生まれるのではない。多くの場合、その起源には不安、嫌悪、警戒がある。だから新しいラベルは中立的な名前ではなく、最初から陰性の電荷を帯びている。怪物とは、そのようにして生まれたラベルの一つである。

怪物とは完全な外部の存在ではない。むしろ社会が引いた境界線そのものを可視化した存在なのだ。言い換えれば、怪物とは境界の警告灯である。文化人類学者メアリー・ダグラスはこれを「本来あるべき場所にないもの(matter out of place)」と呼んだ。

その典型がフランケンシュタインの怪物である。一般には「科学が生んだ怪物」と説明されることが多い。しかし別の角度から見ることもできる。社会に属していながら、どこにも完全には属せない存在。複数の文化や規範のあいだに置かれた存在。言ってしまえば、フランケンシュタインの怪物は一種の「帰国子女」の寓話として読むこともできる。

帰国子女という言葉は日本独特のものだが、現象自体は普遍的だ。外部で形成された人格が、内部の社会に戻ってくる。しかしその社会はすでに「純粋な内部」を前提にしている。結果としてその人物は内部でも外部でもない位置に置かれる。フランケンシュタインの怪物が直面するのも、同じ構図だ。人間の姿をしているのに人間として受け入れられない。社会は彼を怪物と呼ぶ。しかしよく考えると、彼が怪物なのではない。社会の分類表が貧弱すぎるだけである。

私自身も似た経験がある。アメリカでは白人ばかりの学校で異物だった。日本に帰れば帰国子女としてやはり異物だった。つまり私は、二つの社会から丁寧にハブられた。じつに国際的である。

だが境界に立つ人間には、ひとつ妙な利点がある。社会に完全に適応している人間は、その社会の前提を疑いにくい。外部にいる人間は、内部の構造を十分に理解できない。境界にいる人間だけが、両方を見ることができる。もっとも、それが特に役に立つとは限らない。せいぜい飲み会で空気を悪くする能力が上がる程度である。

興味深いのは、こうした境界の存在がしばしば物語の主人公になるという点だ。社会の中心に完全に適応した人物は、実は物語を動かしにくい。物語は多くの場合、二つの世界のあいだに立つ人物を必要とする。人間と悪魔のあいだに立つデビルマン、人間と吸血鬼のあいだに立つブレイド、そして人間とミュータントの境界にいるX-Menなど、多くの主人公がこの構造を持っている。彼らは二つの世界を同時に知っているからこそ、そのあいだを行き来し、物語を動かすことができる。

もちろん、現実の境界人間の大半はヒーローではない。多くの場合、ただの扱いにくい人物として処理されるだけである。そもそも帰属が曖昧な人物は、集団の側から見ると信頼しにくい。人間の社会には強い内集団バイアスがあり、完全に外部の存在よりも「よく似ているがどこか違う存在」に対して警戒や嫌悪が向けられがちだ。社会心理学では、内集団の逸脱者がとくに強く嫌われる傾向が知られている。

さらに、人間は理解できないものや新しいものに本能的な警戒を抱きやすい。進化史の長い期間、未知の存在や外部の集団はしばしば危険だったからだ。そうした認知的不協和を解消する最も簡単な方法の一つが「怪物」というラベルを貼ることだ。神という概念が理解できないものを神聖化する装置だとすれば、怪物という概念は理解できないものを排除するための装置だと言える。

ここでゾンビの話をしよう。ゾンビは、こうした怪物の中でも少し特殊である。多くの怪物が特定の他者を象徴するのに対し、ゾンビは個体ではなく群れとして現れる。そこでは個性が消え、同じ動作を繰り返す集団が押し寄せてくる。その意味でゾンビは「怪物としての他者」というより、「怪物としての大衆」に近い。ゾンビの恐怖は、見知らぬ怪物が襲ってくることではなく、自分と同じ姿をした存在が無数に群れていることにある。ゾンビは、人間社会の拡大コピーなのだ。違いは、彼らがSNSを使わないことくらいである。

SNSは、ある意味で怪物生成装置として機能している。群衆が怒りや不安を共有するとき、そのエネルギーは必ずどこかに集中する。かつてそれは魔女だった。現代では、たいてい誰かのアカウントである。

しかしここには一つ、少し不穏な問題がある。怪物は社会の不安を外部化する装置だと言った。だとすれば、その装置がうまく機能しなくなったとき、何が起きるのだろうか。答えはあまり楽しいものではない。結論を言うと、「怪物が不足すると、社会は人間を怪物にする。」神話の中の怪物が消えると、現実の人間がその役割を引き受ける。社会はいつの時代でも「怪物」を必要とするからだ。言い換えれば、怪物とは単なる恐怖の対象ではない。社会が自分自身を守るために用意した、ある種の安全弁でもある。

こうして見ると、怪物とは恐怖の対象というより、社会の自己理解のための装置だと言える。人間の社会は、不安や矛盾をそのまま扱うのが苦手だ。技術への恐怖、外部集団への警戒、群衆への不安。こうしたものを正面から認識すると、社会は不安定になる。そこでそれらは人格化され、物語の中で怪物として現れる。

怪物は恐怖を外部化し、境界を可視化し、社会が自分自身を批判するための安全弁として働く。言い換えれば、怪物とは社会の異常ではない。むしろ社会が正常に機能している証拠なのかもしれない。

フランケンシュタインは境界に立つ個人の物語であり、ゴジラは核時代の文明不安の寓話であり、ゾンビは群衆の比喩である。怪物たちは姿も時代も違うが、共通する機能は一つだ。社会を外側から見る鏡である。

もっと率直に言え、怪物とは、私たちが最も見たくない「自分たちの姿」を、安全な距離から、しかもエンタメとして、眺めるための装置なのである。

だから怪物の物語は消えない。怪物が消えるとき、それは社会が成熟したからではない。ただ単に、自分を見るのが面倒になっただけであろう。

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