人間はなぜスープをそのまま飲めないのか
——言語の離散化による風味の劣化について——
要約
<人間の思考は本来、境界のないドロドロしたスープのようなものだ。感覚や直観は混ざり合い、流れ、形を保たない。ところが人間は、このスープをそのまま扱えない。そこで言語という包丁を持ち出し、思考を角切りにする。言葉にした瞬間、思考は「扱える」「保存できる」ものになるが、当然うまみは落ち、元には戻らない。この乱暴だが便利な操作が「離散化」だ。人間性の本質は、予測や物語ではなく、この劣化を知りつつ言語化をやめられない点にある。世界を切り刻み、だいたい分かった気になって安心する。それが人間という生き物だ。鍋の中身は、もう思い出せない。>
思考の実体は、本来かなりだらしない。感覚、直観、クオリアは境界を持たず、滲み、混ざり、重なり、時間とともに勝手に流れていく。内省的に眺めると、人間の思考は論理的な命題というより、鍋で煮込みすぎたスープに近い。具材はどこかにあるはずだが、原型はすでに判別不能である¹。
ところが人間は、このスープをそのまま扱えない。鍋ごと抱えて「これが思考です」と言われても困る。箸でつまめないものは、考えたことにならない。そこで人間は、思考を言語に落とす。言葉にした瞬間、思考は初めて「扱えるもの」になる。箸でつまめるサイズになる。もっと言えば、冷凍保存できる角切りになる。当然、味は落ちる。風味も飛ぶ。二度と元のスープには戻らない。だが人間は気にしない。なぜなら「整理できた」からだ²。
この操作は、構造的にはフーリエ変換に似ている。フーリエ変換とは、時間的に連続した信号を、周波数成分という扱いやすい断片に分解する操作である。理論上は逆変換で元の形に戻せることになっているが、それは具材の配置や温度まで完全に記録している場合の話だ。人間の思考は、そこまで几帳面ではない。人間の言語化には、有限の語彙、有限の注意力、文化的な癖、思い込み、そして「まあこんなもんだろう」という雑さが必ず混入する。その結果起きるのは、理論的に美しい可逆変換ではなく、実用一点張りの不可逆劣化である。人間はいつも「近似でよし」「だいたい合ってる」「細かいことはいいじゃないか」で思考を進めている。流れていた思考が、切られ、形を与えられ、同じ姿のまま保存される³。
この一連の乱暴だが便利な処理を、ここでは「離散化」と呼ぶ。
問題は、この操作が単なる思考の技法ではなく、人間性そのものを規定している点にある。
ここで反論が予想される。人間性の本質は予測能力だとか、価値判断だとか、物語を語る力だとか、メタ認知だとかいう反論だ。だが予測も好き嫌いも、動物は普通にやっている。物語や価値は、言語がなければ保存も再利用もできない。メタ認知に至っては、対象を固定して再帰的に眺める必要があり、その時点で言語にどっぷり依存している。つまり、これらはすべて「言語という離散化装置」があって初めて成立する副産物である。人間性の核ではない。枝葉だ⁴。
動物にも、敵味方の区別や行動の切り分けはある。しかしそれは柔らかい。同じ相手が昨日は敵で、今日はそうでもなくなる。境界は滑り、保存されず、簡単に更新される。これに対して人間の言語は容赦がない。一度切ったら切りっぱなしだ。名前を貼り、箱に入れ、棚に並べ、何度でも同じものとして取り出す。この硬さ、この不可逆性、この保存性が決定的に異なる⁵。
結局、人間性の本質を一つに絞るなら、「言語という離散化装置を使ってしまうこと」に尽きる。しかも、言語化が思考を劣化させ、元には戻らないことを薄々知りながら、それでもなお言葉を使わずには考えられないという自己矛盾を引き受けている点にある。人間とは、世界を理解するために世界を切り刻み、その切り刻んだ破片を見て「なるほど」と頷き、だいたい分かった気になり、安心して眠る生き物なのである。鍋の中身が何だったのかは、もう誰も覚えていない。
脚注
¹
思考や意識の連続性については、ウィリアム・ジェームズが『The Principles of Psychology』(1890)で「stream of consciousness」として古典的に記述している。Jamesは、意識を断片の集合ではなく、境界の曖昧な流れとして捉え、「river」や「stream」という比喩を用いた。こうした観点は、その後の現象学、とくにメルロ=ポンティの『知覚の現象学』(1945)でも、知覚経験は連続体として扱われている。
²
言語化によって思考が固定され、同時に取りこぼしが生じる点は、認知科学では情報圧縮や情報欠損の問題として議論されてきた。とくにpredictive codingモデルでは、脳は連続的な入力をそのまま保持するのではなく、予測誤差を最小化する形で内部表現を簡略化していく。ここでは、行動や予測にとって十分な表現の安定性を得るために、細部が表象から排除される。言語化は、予測誤差最小化によって形成された内部表象を、さらに離散的・共有可能な形式へ射影する過程であり、その過程で表現空間は縮退するのである。
³
フーリエ変換の比喩は、認知や知覚を信号処理として捉える文脈でしばしば用いられる。連続信号を周波数成分に分解することで計算や操作は容易になるが、実世界では有限精度や雑音の制約があり、理論的な完全復元は成立しない。人間には聞こえにくい情報を先に捨ててから保存するMP3圧縮が典型例だが、人間の言語化も同様に、有限語彙・文脈・注意の制約の下で行われる近似変換であり、原理的に不可逆である。
⁴
予測や価値判断といった機能は、人間に特有のものではない。霊長類を含む多くの動物で、報酬系や感情処理に基づく意思決定が観察されている。一方で、物語や価値判断が、記号として保存され、時間や文脈を越えて再利用される形で成立するのは主として言語を介してである。メタ認知についても、初歩的な形は動物に見られるが、対象を固定し、判断を再帰的に操作・蓄積する高次のメタ認知は、言語的枠組みに強く依存している。
⁵
動物のカテゴリ知覚(categorical perception)は、音声や視覚の領域で広く確認されており、非人間動物にも見られる。ただしそれらは文脈依存的で可塑性が高く、同一の分類が、記号として保存され、時間や状況を越えて再帰的に再利用されることはほとんどない。これに対して人間言語は、「離散性」や「二重分節性(意味単位のレイヤー、および無意味な記号のレイヤーという二段構えでできていること)」を特徴とし、分類を固定し、反復的に使用できる点で異なっている。
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