外国語は自己破壊

外国語は自己破壊の道具である

要約 

言語は単なるコミュニケーションの道具ではない。それは、我々の思考を形成し、現実を分類し、社会構造を乗りこなすための見えざる力である。哲学者エミール・シオランが「言語は祖国である」と述べたように、外国語を学ぶことは自己破壊の行為にほかならない。それは、自らの認知枠組みを解体し、再構築する過程である。

本エッセイでは、言語の構造が認知や文化に与える影響を探る。日本語における冠詞の欠如韓国語やヒンディー語に見られる厳格な敬語体系など、言語は個人の抽象概念の捉え方、階層意識、さらには民主主義観までをも微妙に規定する。サピア=ウォーフ仮説や現代の認知科学によれば、思考は完全に自由ではなく、言語のカテゴリによって制約を受ける

では、その制約から解放されると何が起こるのか。新たな言語を学ぶことは、異なる世界観との対峙を強制し、母語に潜む隠れたバイアスを暴き出す。ゲーテは「外国語を知らぬ者は、自国語についても何も知らない」と述べた。本エッセイでは、真の知的解放とは第一言語という認知の牢獄を打ち砕くことにあると考える。その破壊こそが、より深い理解への第一歩となるのだ。
(本文はここから)
人の思考を方向づける要素には文化、宗教、言語など、いろいろある。今回はその中でも、ひそかに我々の思考を支配している「言語」に注目してみたい。
言語が思考を方向づけると考え方た人たち[脚注1]の中に、ルーマニア出身の思想家エミール・シオラン(Emil Cioran, 1911-1995)がいる。彼はこんな言葉を残している。
私たちはある国に住むのではない。 ある国語に住むのだ。 祖国とは国語だ。 それ以外の何ものでもない
なかなか詩的な表現だが、「祖国」は同時に、私たちを閉じ込める檻でもあるのではないか。
実際に、言語の単語やカテゴリーが、無意識のうちに人の認知や思考の枠組みを方向づけている ことを示唆する研究データがある(ソース:『進化しすぎた脳』池谷裕二著)。たとえば、英語圏の人たちは。”foot“(足)から”leg“(脚)を連想する。しかし日本人だったら、これはありえない発想だ。日本語にはfootとlegを区別する言葉がなく、どちらも「足」と呼ばれるからだ。連想は、実は自由な発想に基づいておらず、「どの言語を使っているか」に縛られるのだ(言語と思考の関連を示唆する研究は、他にもある[脚注2])。
冠詞の有無も思考に影響を与える。たとえば、英語には不定冠詞の’a’や定冠詞の’the’があり、ヨーロッパの主要な言語にも同様の冠詞がある。英語の‘a’‘the’は、文脈によって一般的なもの(抽象)を指す場合もあれば、具体的な数(’a’ = ひとつ)や特定のもの(the)を指す場合もある。たとえば、”a dog”(犬という種類の1匹)と”the dog”(特定の犬)では、話者の認識が異なってくる。このため、冠詞を使用する言語の話者は具体と抽象を意識的に区別する習慣が身につきやすいのではないだろうか [脚注3]。
敬語表現の有無も、対人関係のあり方を決定づける。たとえば日本語には「食べる」「見る」「聞く」などの言葉があるが、目上の人間にはこれらに対応する特別な動詞があり、それを使わないと失礼になる。この結果、日本はヒエラルキー的な意識が強くなりやすい。韓国語に至っては、上記のような敬語ばかりでなく、日本語の「は」とか「が」に相当する助詞にすら敬語表現がある[脚注4]。
カースト制度があったインドに話者の多いヒンディー語の敬語表現は、日本語ほど複雑ではないものの、英語よりは豊かだ。ヒンディー語では、代名詞で丁寧さを区別したり、動詞の活用でも敬意を示したりする。このおかげで、敬語を通じて「あなたがどれだけ敬われるべき存在か」を明示的に教えてくれる。さすが、社会的ランク付けが歴史的にガチガチな国ならではの配慮である。
ドイツ語スペイン語には、敬意の表現はほとんどない。しかし二人称のYouに相当する“du”(ドイツ語)や“tú”(スペイン語)には、目上の人に使うための別の形“Sie”(ドイツ語)、“usted”(スペイン語)がある。つまり、英語のようにすべての人を対等に扱うような「無頓着」なスタイルではなく、一応、相手の社会的地位を考慮しているようだ。
敬語文化がやたらと発達している日本や韓国とは対照的な国の例として、アメリカ、スウェーデン、そしてイスラエルがある。これらの国々が特異な点は、目下の人間が年上または目上の人たちに平気で意見を言う 傾向が強いことだ(ソース『In defense of a liberal education (Fareed Zakaria著)』)。これらの国々の言葉には、いずれも敬語表現がほとんどないのではないかと思って調べてみたら、案の定、その通りだった[脚注5]。これらの国々では、日本人や韓国人から見れば「失礼が標準装備」なのだ。
こうした例を見ていくと、外国語を学ぶことは単なるスキルアップではなく、むしろ母語がもたらす思考の檻から脱出し、自分を再構築する「自己破壊的な経験」だと言える。外国語を学ぶと、自分とは違う仕方で世界を分けたり、違う景色を見ている人たちに接近できる。また、そうすることで、私たちは初めて母国語を突き放して見ることができるようになる。ゲーテはこんな言葉を残している。
外国語を知らない者は、自分の母国語について何も知らない
(Wer fremde Sprachen nicht kennt, weiß nichts von seiner eigenen.)
脚注
[1]
「思考が言語の方向を決める」という考え方をした人たちには他にも19世紀にフランシス・ゴールトン(Francis Galton)がいる。彼が提案した言語仮説(Lexical Hypothesis) によれば「特定の文化や社会で頻繁に使われる単語や表現が、その社会の人々の思考や価値観、現実認識を反映する」と考えられた。「使われる言葉の数でその社会の深さがわかる」という話であれば、現代のSNSでの頻出語「LOL」や「WTF」が、我々の知的水準を代表している可能性は高い。
さらに、20世紀初頭の言語学者エドワード・サピア(Edward Sapir)とベンジャミン・ウォーフ(Benjamin Whorf)らによる「サピア゠ウォーフの仮説(Sapir-Whorf hypothesis)」というものもある。これは「どのような言語を用いるかということが、抽象的な思考の内容をも決定する」というものだ。 ただし、「思考が言語によって完全に決定される」という「サピア゠ウォーフの強い仮説(言語的決定論)」は現在では否定されており、むしろ「言語が思考に影響を与えるが限定的である」という「弱い形(言語的相対論)」が支持されている。
[2]
ベルリンとケイの色彩の認知研究, 1969年によれば、言語によって色のカテゴリが異なることが、人々の色の識別能力に影響を与える。たとえば、青色と緑色を区別しない言語を話す人は、色の境界が曖昧になる。さらに、レヴィンソンの空間認知の研究によれば、オーストラリアの先住民族(グーグ・イミディル語)は絶対的な方角(例: 北、南)で物の位置を表す。これにより、彼らは常に絶対的な空間認識を保つことが可能となっている。
[3]
社会にヒエラルキーがあると安定感が増す一方で、何でも自由に言える空気はどこかへ消えてしまう。日本や韓国のように敬語文化が極端に発達している国を見ると、民主政との相性が悪そうだ、と感じる。というのも民主政は、本来は市民が忌憚なく意見を言い合って合意形成するのが前提のはずなのだが、敬語だらけの会話では、肝心な「言いたいこと」も、つい「言えないこと」になってしまうからだ。
私個人としても、日本語や韓国語の敬語文化には好感を持っていない。さらに、敬語がもたらす脳の負荷を考えると、そこまでして「尊敬」する必要があるのかと疑問に思う。たとえば、2021年に発表された研究(An EEG analysis of honorification in Japanese: Human hierarchical relationships coded in language. Tokimoto et al. Front Psychol. 2021 8;12)によると、敬語の誤用、たとえば自分を尊敬する表現を使ってしまった場合、脳のN400という電位が強く反応するらしい。つまり、敬語が社会的関係の文脈と一致しないと、脳が「えっ、何それ?」とツッコミを入れているわけだ。
[3]
一方で、日本語のように冠詞を持たない言語では、具体と抽象の区別が文脈頼みになることが多い。たとえば「犬」と言ったとき、それが近所を歩いている具体的な柴犬のことなのか、哲学的に語られる犬という概念全般を指しているのか、少々曖昧になりがちだ。このあたり、日本語話者の「まぁ、雰囲気でわかるでしょ?」的なノリが垣間見える。そのせいか、日本語話者は具体と抽象をきっちり分けて考えるのが得意とは言い難い。
私も日本語が母語なので、英語の冠詞を使うたびに「なぜ犬に”a”や”the”をつけなきゃいけないのか?」と、心の中で小さな反抗期を迎える。しかし、この冠詞の存在が、物事を整理し、明確に表現する能力を養う助けになっているのだと考えると、少しはそのありがたみを認めざるを得ない。さらに、欧米文化圏では物事を論理的に詰めていくことに対する抵抗感が薄いという印象を受ける。これは「冠詞」による具体と抽象の区別が、彼らの「まず整理整頓してから話そうぜ」という態度を支えている一因ではないかと思われる。もちろん、論理性に関しては文化の影響もあるだろうが、冠詞が「文法のマイクロマネージャー」として働いているおかげで、欧米人の頭の中では論理的思考の歯車がスムーズに回りやすいのかもしれない。
[4]
私が韓国語を勉強していて最も驚かされたのが、この「助詞にまで敬語がある」という事実だった。単なる「が」や「は」にまで年齢や上下関係への配慮が入り込むのだ。この徹底ぶりを見ると、韓国語という言語自体が、社会的ヒエラルキーのために設計されたのではないかと思えてくる。韓国では존댓말(丁寧な言葉)반말(タメ口)が明確に区分されている。まるで会話が、そのまま競争社会の縮図となっているようだ。
実際、「年齢1年差でも先輩後輩にはなれても、友にはなれない」という言葉が韓国社会の現実を象徴しているように思う(ソース:『韓国人として生まれ日本人として生きる』シンシア・リー著)。この背景には、年齢差によってタメ口が使えなくなるという事実がある。
[5]
イスラエルのユダヤ人はヘブライ語を使う。ヘブライ語には、ドイツ語や日本語のような体系的な敬語がないし、「あなた」を意味する אַתָּה (ata)(男性)や אַתְּ (at)(女性)は、親しい間柄でも目上の相手でも同じように使う。このフラットな言語体系を考えると、イスラエル人がしばしば議論で遠慮がないと言われるのも、なんだか納得できる。
また、スウェーデン語にはかつて、目上の人に対して ni という敬称を使う習慣があったが、現在は使われていないものの、皮肉として使う人はいるらしい。攻撃的な言説で知られる環境保護活動家のグレタ・トゥーンベリがスウェーデン出身であることは、偶然ではないと思う。

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