思考の排泄としての執筆──SNSという便器の哲学

思考の排泄としての執筆

──SNSという便器の哲学

(文体:内田樹風)

 

一 消化器としての知性

人は、毎日なにかしらの情報を摂取しています。

ニュースを読み、SNSを眺め、人と話し、動画を観る。

それだけでもう、ずいぶんたくさんのものを「口に入れて」いるわけです。

ところが、それだけの量を摂っておきながら、

それらを「きちんと出しているか?」と問われると、やや不安になる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

書かない。語らない。形にしない。

つまりは、出さない。

それは—身体的な表現をするなら–便秘です。

思考というのは、出して初めて機能します。

どんなに食べても、出さなければ滞留してしまう。

知識もまた、循環がなければ、腸内腐敗してしまうのです。

 

二 書くことで自分の“考えぐあい”がわかる

人は、自分が「何を考えていたか」を、意外とわかっていません。

書いてみて、あるいは話してみて、ようやく「ああ、こういうことだったのか」と気づく。

それまでは、ただの便意です。

「出そうな気がするけど、何が出てくるかは不明」──

そんな状態が、思考のデフォルトです。

だから、書いてみるしかないのです。

これは、自分の腸の動きをモニターするような作業です。

 

三 SNSは思考の公衆便所である

SNS──たとえばFacebookやX(旧Twitter)──は、現代における知性のための便器として機能しています。

それは、どこかに出すことで初めて気づく「自分の中身」を、処理して、次に進むための装置なのです。

完全な独り言とは違って、誰かに見られているかもしれないという意識があると、人は少しだけ背筋が伸びる。

出すものの形やタイミングに、わずかな緊張が生まれる。

その微細な緊張が、思考を形にし、ときに秩序だった言葉を生みます。

 

四 香る投稿と、未消化の投稿

SNSには、いろいろな投稿があります。

中には、よく咀嚼され、発酵し、

読んだ人の中に「自分も何か出してみようかな」と思わせるものがある。

これは、悪くないウンコです。どこか香ばしい。

それは、内容そのものというより、咀嚼と消化の丁寧さからくるものです。

一方で、昨日読んだ記事の要約や、一時の怒りがそのまま噴き出したような投稿もある。

これは未消化ではあるけれど、「身体が正直だった」という意味では誠実です。

どちらがいい、という話ではありません。

排泄には、上も下もありません。

ただ、出さないよりは、出したほうがいい──これは、多くの場面で当てはまる真理です。

 

五 なぜ公開するのか

「自分のために書いているなら、なぜ人に見せるのか?」と疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。

これはおそらく、「表現=承認欲求」という前提があるから出てくる問いです。

でも、私はちょっと違う構えでいます。

他人のために書いているのではない。

かといって、自分だけに書いているのでもない。

「誰かが読むかもしれない」という形式そのものが、思考を引き締めるのです。

公開とは、自己顕示ではなく、書く人の姿勢を変える仕掛けなのです。

 

六 終わりに──“出す”ということの意味

この文章も、私にとっては一種の排泄です。

何日か、腸の奥にひそんでいた便意が、こうして言葉となって出てきた。

すっきりしたかといえば、正直まだよくわかりません。

でも、たとえ中途半端でも、出してみることには意味があります。

言葉にすることで、腸のどこに問題があるかも、少し見えてくるからです。

もしこの文章を読んで、

「自分もちょっと、何か出してみようかな」と思った方がいれば──

どうかご自身の“便器”に、そっと座ってみてください。何が出てくるかは、そのときのお楽しみです。

 

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