教育本の多くは規範を語る。
子どもをどう育てるべきか。教師はどう教えるべきか。「主体性」を育てるには何をすればよいのか。そこでは教育は、善意と方法の問題として扱われやすい。正しい理念と優れた教育法さえあれば、人は望ましい方向へ変化できるという前提が、ほとんど疑われない。
本書は、その前提を疑う。
教育を理想論からいったん切り離し、〈生物としてのヒト〉が進化の過程で獲得した特殊な学習機構として捉え直す。人間はなぜ他者に教えようとし、教わろうとするのか。教えられた内容は、なぜそのまま相手の内部へ移植されないのか。教育が期待どおりに機能しないのは、教師の熱意や生徒の努力が不足しているからなのか。
著者が試みるのは、教育学を生物学へ再配置することである。
1 学習は普遍的だが、教育は特殊である
学習そのものは、人間に固有ではない。
神経系を持たない生命体でさえ、環境からの刺激に応じて反応を変える。昆虫は条件を学習し、魚は空間を記憶し、鳥は他個体を観察して課題を解く。
学習とは、生物が環境の中で生き延びるための基本機能である。
しかし、教育は単なる学習ではない。
他個体を見て結果的に学ぶことと、相手が学べるように自分の行動を意図的に変えることの間には、重要な差がある。教育には教える側のコストが発生する。時間やエネルギーを使い、ときには危険を負いながら、相手の学習を助けなければならない。
ミーアキャットは、幼い個体にまず弱らせたサソリを与え、次に半殺しのものを与え、最後に生きたサソリを扱わせる。能力に合わせて課題の難易度を調整している。人類が発明したと思っていた段階的な指導を、ミーアキャットは教員免許なしで実践している。
教育が進化するためには、観察だけでは習得しにくい知識や技能があり、教えることの利益が最終的に教える側や集団へ戻る必要がある。血縁選択、包括適応度、安定した社会集団。教育は純粋な善意から突然生まれたのではなく、生存上の条件の中で成立した。
人間では、この教え教わる機構が極端に発達した。
乳児は、大人の視線、声色、アイコンタクトから「これから重要な情報が伝えられる」と察知する。また、自分だけでなく他者が何を知り、何を知らないかにも早くから反応する。まだ十分に言葉を話せない子どもでさえ、相手が知らないものを指差して教えようとする。
人間は、教わる動物であるだけでなく、教えずにはいられない動物でもある。
著者は、この特殊な機構を「教育脳」と呼ぶ。
2 教育は情報伝達ではなく、予測モデルの調整である
本書の第一の理論的な支柱は、自由エネルギー原理と能動的推論である。
脳は、外界をそのまま受け取る受動的な装置ではない。世界の状態を予測し、入力とのズレを減らそうとしている。知覚も行動も学習も、予測と予測誤差の調整として理解できる。
この見方に立てば、教育は知識の転送ではなくなる。
教師は、「生徒はどこまで理解しているか」「どこでつまずくか」「この説明なら何が伝わるか」を予測する。生徒も、「教師は何を言おうとしているのか」「この言葉は何を意味するのか」「次に何を要求されるのか」を予測する。
教育とは、二人の脳がそれぞれの内部モデルを用い、相手のモデルを推測しながらズレを縮める共同作業である。
したがって、教師が正しい説明をしたからといって、その内容がそのまま生徒へ移るわけではない。同じ言葉を聞いても、学習者の経験、知識、注意、認知能力によって構成される意味は異なる。
ズレが小さければ、教師の提示した情報は、生徒の内部に形成されつつあったモデルを更新する手がかりになる。ズレが大きすぎれば、「わからない」「できない」「何を言われているのかさえわからない」という状態になる。
教育の失敗は、教師の人格や生徒の根性の問題とは限らない。内部モデルの不一致として起こりうる。
ここで教育学は、規範の学問から制約条件の学問へ変わる。
人は教えられたとおりには学ばない。教えられた内容を、自分の脳が構成可能な形へ変換してしか学べない。期待した意味での教育が完全には成立しないことは、教育の故障ではなく、その基本仕様なのである。
3 教育には二つの顔がある
本書は教育に、「形式的側面」と「実質的側面」という二つの顔を認める。
形式的教育とは、資格、点数、順位、社会的地位など、外部から確認可能な「形」を得るための教育である。受験はその典型であり、外発的動機づけやパフォーマンスゴールに近い。
実質的教育とは、知識や技能が本人の内部で意味を持ち、その人自身の世界を変える学習である。そこでは、他人より上に立つことより、対象をさらに深く理解することが重要になる。習熟しても終わらず、到達点の先に次の問いが現れる。
本書が対比する『ドラゴン桜』と『ブルーピリオド』は、この二面性をよく示している。
『ドラゴン桜』が扱うのは、入試という明確なルールの中で得点を最大化する教育である。目標が定義され、達成条件があり、合格すればひとまず終了できる。
一方、『ブルーピリオド』の主人公は、社会的成功以前に、自分にとって絵を描くとは何かを問わざるをえなくなる。他人の感動ではなく、自分自身の感動を探し、自分の見ている世界を表現しようとする。そこに明確な終点はない。
ただし、著者は形式的教育を偽物、実質的教育を本物として単純に序列化しない。
形式的教育も、生物学的な生存方略である。社会的動物には階層を上昇しようとする傾向があり、人間社会では学歴や収入がその位置を可視化する主要な指標になる。資格を得ること、競争に勝つこと、有利な位置を確保することには、生存上の意味がある。
問題は、両者を混同することだ。
形式的教育の成功を、その人の実質的価値と同一視する。あるいは、学校という形式的制度の中で、すべての生徒に真正な探究を経験させられると考える。
学校には時間割があり、試験があり、修了がある。しかし実質的学習には、本来、修了がない。一人の人間がすべての教科を「道」として追究することも不可能である。
「自ら考えよ」と命令することは、すでに他律的である。「主体的に学べ」と全員へ一斉指示する光景には、やや前衛芸術的な趣がある。
学校で実質的学習が起こらないわけではない。起こる。しかし、それを制度的に命令し、同じ時間割の中で全員に発生させようとすれば、実質を形式へ変換する矛盾が生じる。
4 「私脳」と「仕事脳」
本書は教育の二面性を、脳機能ネットワークの違いからも説明する。
デフォルトモード・ネットワーク、DMNは、自分の過去を振り返り、未来を想像し、自己について考え、物語を形成するときに活動する。著者はこれを「私脳」と呼ぶ。
中央実行ネットワーク、CENは、ワーキングメモリを使い、外部から与えられた課題を意識的、論理的に処理するときに働く。「仕事脳」である。知能検査、計算、試験勉強、複雑な指示の遂行などに関わる。
本書のモデルに沿えば、受験教育は主としてCENを強く要求し、自分にとって何が重要なのか、どの問いを追うのかという実質的学習にはDMNが深く関わる。
この区別によって、「優れた人の勉強法をまねれば自分も同じ成果を得られる」という発想の問題も見えてくる。
ある人が自分で編み出した学習法は、その人の注意、記憶、興味、思考のリズムに適合している。それは本人の内部モデルと実行機能が組み合わされた結果である。
他人がそれをまねる場合、課題を処理することに加えて、「この人のやり方を正しく再現できているか」を監視しなければならない。方法が自分の自然な認知様式から遠いほど、余分な負荷が増える。
「東大生の勉強法」とやらが、その東大生には有効でも、読者には機能しない理由の一つがここにある。東大生の方法を買っただけで東大生の脳回路まで配送されるわけではない。
学習法は、情報から独立した万能の容器ではない。学習者の脳との適合関係である。ボトルネックは、しばしば努力不足ではなく回路負荷なのだ。
ただし、DMNとCENを、実質と形式へ単純に一対一対応させることもできない。
自分の内部から生じた問いを論理的に追究するとき、両者は協調しうる。熱力学や歴史を、試験に出るから覚えるのではなく、自分の疑問を解くために学ぶ。ある理論を、それを生み出した研究者と同じ地点に立って再構成する。
そのとき学習者は、知識の消費者ではなく、発見を追体験する探究者になる。
一方、内発的動機づけが高まり、課題へ完全に没頭するフロー状態では、自己物語を担うDMNがむしろ抑制されることもある。自分について深く考えることと、自分を忘れて対象へ没入することは同じではない。
学習は、内省か実行かという二択ではない。複数の回路が、局面ごとに切り替わり、協調し、ときに拮抗する動的過程である。
5 教育は二者関係ではなく三項関係である
教育は、教師と生徒が向かい合うだけでは成立しない。
教師、学習者、学ぶ対象。この三者が一つの関係を作る必要がある。
二人が同じ対象へ注意を向け、その対象について相手が何を見ているかを推測し合うとき、教育の三項関係が成立する。その基礎にあるのが共同注意である。
人間は、相手の視線や表情を読み、何に注意を向けているかを推測する。他者の信念や意図が自分とは異なることを理解する心の理論、自他の行動を背後の感情や欲求から理解するメンタライゼーションなどが、社会的学習を支える。
教育とは、知識のある脳から知識のない脳への一方向の転送ではない。二人の脳が第三の対象を介して、一時的な共通世界を構築することだ。
教師には明白な構造が、生徒には雑音にしか見えないことがある。教育者は、自分の見えているものを説明するだけでなく、相手には何がまだ見えていないのかを推測しなければならない。
本書は、教師と学習者の脳活動の同期が学習成果と関連する研究も紹介する。対面場面では、前頭前野などの活動同期がテスト成績と関係する場合がある。
ただし、一対一で成立する精密な同期が、一人の教師と多数の生徒からなる教室でも同様に生じるとは限らない。
教師が三十人の異なる内部モデルを同時に推測し、全員と同じ対象を同じ解像度で共有することは困難である。教師に無限の個別対応を要求することは、一つの脳に構造上不可能な規模のメンタライゼーションを押しつけることでもある。
学校のブラック化を、教師の使命感不足や業務効率だけで説明してはならない。制度が教師に、教育脳の処理能力を超えた仕事を期待している可能性がある。
6 遺伝を認めることは、教育を諦めることではない
本書の第二の理論的支柱は、行動遺伝学である。
知能や学力には高い遺伝率が認められる。ただし遺伝率とは、ある個人の能力の何%が遺伝で決まっているかを示す数値ではない。ある集団に存在する個人差のうち、どの程度が遺伝的差異によって統計的に説明されるかを示す。
知能を決める単一の遺伝子が存在するわけでもない。非常に多数の遺伝的変異が、微小な効果を積み重ねて個人差に関与する。親から子へ伝わる際には、その組み合わせが再編成されるため、親子は似るが同一にはならない。
著者の逆説的な表現を借りれば、遺伝は単純には「遺伝しない」。
遺伝的影響が大きいことは、教育が無意味であることを意味しない。しかし、教育によって誰でも同じ地点へ到達できるという意味でもない。
環境による変化は起こる。ただし環境の効果は、「いま・ここ・これ」という条件に依存する。特定の訓練環境で発揮された能力が、その環境を離れても維持され、あらゆる状況へ一般化するとは限らない。
学校で学んだ知識の多くは、永久不変の資産として保存されるわけではない。使われなければ失われる。環境が変われば、以前の訓練で形成された行動も薄れる。
「学べば一生の財産になる」という言葉は、教育広告としては優秀だが、生物学的な保証書としてはかなり字が小さい。
学習の価値は、将来のために保存される情報量だけではない。学習しているその瞬間に、何を見て、何を考え、どのような内部状態を経験したかにもある。
学校の壁新聞、修学旅行、課外活動、授業中の何気ない一言。形式的評価から見れば周辺的な出来事が、ある個人の遺伝的傾向と偶然に接触し、その後の人生を方向づけることがある。
しかし、その出会いを体系的に量産することはできない。
ビリギャル型の劇的成功は起こりうる。特定の素質が特定の環境と出会えば、大きな変化が生じる。しかし、それが起きたことと、誰に対しても同じ結果を設計できることは別である。
個別的成功を一般教育法へ変換すると、再現性のない幻想が生まれる。
7 努力万能論は、優しい思想ではない
教育の領域では、能力差に遺伝的要因があると述べること自体が、長くタブー視されてきた。
遺伝を語れば差別につながる。能力を固定的に捉え、弱者を切り捨てる思想になる。その警戒には歴史的理由がある。
しかし、科学的に誤った環境万能論が、人間に優しいとは限らない。
誰でも努力すれば同じ結果を得られると教えれば、結果が出なかったとき、その原因は本人の努力不足になる。能力差を否定する思想は、表面上は平等主義的でありながら、失敗の責任を個人へ集中させる。
努力しても学力が伸びない子どもに、さらに努力を要求する。適性の合わない方法を続けさせる。成果が出ないのは、本気でないからだと解釈する。
これは励ましではない。制約条件を無視した負荷の追加である。
遺伝的個人差を認めることは、冷酷さではない。無駄な精神論から個人を解放することでもある。
誰もが大谷翔平や藤井聡太になれるわけではない。それは人間の価値に差があるからではなく、能力構成が同一ではないからである。
さらに厄介なのは、学校の試験が遺伝的影響を強く受ける能力を測定し、その結果によって人を序列化していることだ。個人が選択できなかった差異を測定し、その測定値を社会的資格へ変換する。
その意味で、試験による選抜は優生的な構造を部分的に持つ。
学校は平等を語りながら、遺伝的差異が強く表れる能力によって人を分類する。一方で、その差異が遺伝と関係することは認めない。
ここに近代教育の自己矛盾がある。
「みんなちがってみんないい」という言葉は、差異を肯定しているように見える。しかし本書が突きつけるのは、それより冷たい事実である。
みんな違う。
そして、その違いの多くを自分では選べない。
8 遺伝は制約であるだけでなく、創造の源泉である
ただし、本書は遺伝決定論へ向かわない。
著者が行動遺伝学と自由エネルギー原理を接続することで示そうとするのは、遺伝を閉塞の原因ではなく、予測と創造の源として捉え直すことだ。
人は、目の前の環境に完全には適合しない内部モデルを持つ。
部屋の家具配置に違和感を覚える。既存の説明では納得できない。現在の制度が不自然に見える。まだ存在しない形を、ぼんやり予測する。
このズレが、環境を変更しようとする行動を生む。
創造とは、何もない場所から自由に何かを生み出すことではない。遺伝的に形成された内部モデルと現実の環境との不一致を減らそうとする営みとして理解できる。
すべての人は、過去に存在したことのない遺伝的組み合わせを持つ。したがって、その人の内部モデルに完全に適合する文化的環境が、最初から用意されている可能性は低い。
人は環境に適応するだけでなく、自分に合わない環境を変形させる。
その意味で遺伝は、自由を妨げる鎖ではない。環境に存在しないものを予測し、文化を作り変える源でもある。
「あなたはあなたにしかなれない」という言葉は、可能性を閉じる宣告ではない。他人の成功モデルを再現しようとすることより、自分の内部から繰り返し生じる予測や違和感を手がかりにせよという提案である。
9 学校は教育の全体ではない
人間は学校へ入る前から学び、学校を出た後も学び続ける。
母語、生活習慣、国民性、社会規範、価値判断の多くは、明示的な授業によって教えられるのではない。周囲の会話を聞き、他者の行動を観察し、文化的環境へ参加することで身につく。
本、映画、広告、建築、街の風景、インターネット上の言葉。文化物は、教科書でなくても人間の注意と行動を方向づける。
著者は、文化物が教育的学習をアフォードすると考える。
ドアノブが「回す」という行為を誘発するように、文化物は特定の見方、感情、問い、行動を可能にする。物語は正常と異常の境界を教え、広告は欲望の向きを整え、街の構造は移動と接触の仕方を規定する。
教育は学校に閉じ込められない。
むしろ本人の人生に深く残る実質的教育は、学校外の偶然の接触から生じることが多い。たまたま手に取った本、偶然出会った人、旅行先で見た風景、誰かの不用意な一言。
どれに出会うかは偶然である。しかし、同じ対象に出会っても全員が同じように反応するわけではない。本人の内部モデルが、その対象に何かを予測したときにのみ、「出会い」になる。
偶然に遭遇し、必然的に反応する。
教育とは、計画された授業だけではなく、遺伝的に異なる個体が文化空間を移動しながら、自分にとって意味のある刺激に選択的に捕獲される過程でもある。
学校は、その巨大な流れを制度化した一装置にすぎない。
10 学校が設計できるのは、出会いの分布までである
学校は個人のために存在すると語られる。しかし制度としての学校は、個人差を捨象しなければ成立しない。
共通の学年、共通の教科、共通の時間割、共通の評価基準。公教育は、学習者を完全に固有な存在として扱えない。ある程度交換可能な「生徒」として処理する必要がある。
この制約を無視して、学校に一人ひとりの本質を発見し、才能を最大限に開花させ、真正な自己実現を支援することまで要求すれば、制度は過積載になる。
教師は、生徒の人生全体を設計できない。学校も、個人の遺伝的素質に最適化された環境を提供できない。
できるのは、多様な刺激や活動を置き、偶発的な適合が起こる可能性を増やすことだろう。
すべての生徒を同じ成果へ導くことではなく、さまざまな対象と接触できる場を作る。成績に直接結びつかない経験を残す。「面白い」「できそう」「なぜか気になる」という微弱な反応を、無意味として消去しない。
教育制度が設計できるのは、人生の結果ではない。
出会いの分布までである。
それ以上を約束すれば、教育は宗教になる。
11 著者自身を救済する科学
本書の末尾で、議論は著者自身へ戻ってくる。
著者は音楽美学を志し、大学入試で失敗し、心理学への進学にも失敗し、「才能は生まれつきではない」という教育思想に関心を持ちながら、その探究の途中で正反対の行動遺伝学へ出会った。
本書の理論は、抽象的な教育論であるだけではない。
なぜ自分は望んだ道へまっすぐ進めなかったのか。なぜ何をしても「本当の自分がやっている」という感覚に届きにくいのか。なぜ教育を研究し続け、遺伝と環境と脳を一つの理論へ接続しようとしたのか。
著者は、自分自身の精神史を科学的に再解釈しようとしている。
これは科学の不純な利用ではない。むしろ、多くの理論形成の背後にある自然な駆動力である。
人は、自分の内部モデルと人生の出来事とのズレを減らそうとする。著者にとって行動遺伝学と自由エネルギー原理の接続は、教育の構造を説明するだけでなく、自分の人生に起きた出来事を別の意味配置へ置き直すものだったのだろう。
環境万能論の中では、失敗は本人の不足として残る。
しかし遺伝的個人差と環境との不一致として読み直せば、それは別の構造を持つ。自分が到達できなかったもの、自分に適合しなかった制度、自分でも説明できなかった欲求が、単なる敗北ではなくなる。
本書は、教育学を生物学へ変えようとする試みであると同時に、著者自身を科学によって救い出そうとする試みでもある。
この内発的な切迫感が、行動遺伝学、神経科学、発達科学、文化進化論、教育制度論を横断する射程を生んだのだと思う。
12 教育を規範から制約条件へ
本書は、優れた教師になる方法を教える本ではない。
読めば成績が上がるわけでも、子どもの才能を発見できるわけでもない。むしろ、教育に対して抱いていた過剰な期待を削る本である。
人は教えられたとおりには学べない。教師と学習者の内部モデルは一致しない。学習能力には遺伝的な個人差がある。教育効果は環境依存的であり、永続するとは限らない。劇的な成功は起こるが、計画的に量産できない。学校は個人差を捨象する公的制度であり、すべての人に真正な学びを提供することはできない。
かなり冷たい。
しかし、これは教育の否定ではない。
教育にできないことを認めなければ、できることも見えない。人間の制約を認めずに理想を押しつければ、そのコストは、能力の合わない子どもと、達成不可能な責任を負わされた教師が支払う。
遺伝を認めることは、希望を捨てることではない。
希望の置き場所を変えることだ。
全員を同じ場所へ運ぶ教育ではなく、異なる内部モデルを持つ人間が、自分に反応する対象と出会う可能性を広げる教育。努力すれば何にでもなれるという慰めではなく、何に反応せずにはいられないかを観察する教育。成績だけを成果とせず、そのとき何を経験したかを重視する教育。
本書が突きつけるのは、「みんなちがってみんないい」という柔らかな標語ではない。
みんな違う。
みんな、その違いを選んでいない。
そして、その違いに完全に適合した環境も、最初からは存在しない。
だから人は学び、環境を変え、文化を作る。
教育とは、完成した人間を設計する技術ではない。異なる遺伝的履歴を持つ脳が、他者と予測をすり合わせ、文化の中で偶然に出会い、自分と世界のズレを一時的に縮めようとする営みである。
この本そのものもまた、読者の教育観と現実との予測誤差を広げ、内部モデルの更新を迫る教育的装置になっている。
努力という言葉を、感情や道徳ではなく、遺伝、脳、環境、制度という制約条件の中で考え直したい者にとって、きわめて刺激的な一冊である。
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