責任は虚構

責任は虚構である

 

要約

本エッセイは、自由意志が存在しない以上、人間には責任もないという論理的帰結を示す。「責任がない」という結論は常識と対立するが、これは単なる感情的な反応に過ぎない。

筆者は、犯罪を例に挙げる。ある男が銃を発砲し人を殺した場合、通常なら「彼は責任を負うべきだ」と考えられる。しかし、もし自由意志がなければ、彼には責任がないことになる。この視点をさらに押し進めると、仮に彼の脳に腫瘍が見つかった場合、人々の怒りは同情へと変わる。この変化は、犯罪行為が制御不能なものであることを示唆する。つまり、犯罪とは天災のようなものであり、それに対して「責任」を問うのはナンセンスだ。

では、責任を否定すると社会秩序は崩壊するのか?筆者はそうは考えない。害獣を駆除するのと同様に、社会にとって有害な人物を隔離することは、合理的な政策として存続し得る。むしろ「刑務所」を「不運な人々の隔離施設」と呼び変えることで、非難ではなく機能的な措置として捉え直すことができる。

自由意志の不在を受け入れることには、意外な利点もある。それは、個人の成功に対する謙虚さと、社会的弱者への寛容を育むことだ。成功も失敗も自由意志の結果ではなく、環境や遺伝の偶然に過ぎないとすれば、格差の是正や再配分の正当性も増す。この考えはジョン・ロールズの『正義論』にも通じる。

しかし、人類は長らく自由意志というフィクションを前提に社会を構築してきたため、この考えを受け入れるのは容易ではない。言語すら、自由意志の存在を前提とした「能動態」に依存している。筆者は、より「中動態」に近い表現を増やすことで、自由意志の幻想から脱却する道を模索するべきだと提案する。

最終的に、自由意志の否定は人類の長期的進化の一環であり、未来の社会ではこの視点が主流になるかもしれないと筆者は予測している。

(本文はここから)

数日前にエッセイ(リンク)に書いたように、人間に自由意志はない。意思がないのだから、責任もないことになる。これは論理が導く必然だ。これを読んで「なんて不道徳な!」と眉をひそめる人がいるかもしれないが、必然なのだから仕方ない(ちなみに「眉をひそめる」という行為にしても、あなたが自由意志で選んだわけではない。同様に、このエッセイを書くという無謀な挑戦を始めたのも、私の自由意志ではない。たぶん私の脳のどこかで、カフェインが暴走した結果だろう)。

 

しかし「誰にも責任はない」という結論は、たしかに一般常識とだいぶズレている [脚注 1-2]。ここで、次の例を考えてみよう。ある男が銃を発砲して人を殺したとする。普通なら「この男は自分の意思で銃を撃ったのだから、結果に対して責任を負う」と考えられる。だが、もし自分の意思がないとしたらどうか。この男には責任がないことになる。
さらにこの男について、こんな事例を考えてみよう。後にMRI検査を受けた結果、大きな脳腫瘍が見つかったことが判明する。おそらく「なんて悪い奴だ!」という怒りは、「あらまぁ…お気の毒に」という同情に変わるだろう。
そう考えると、私たちは地震や台風を非難しないように、この男を非難する理由を失うような気がしないか。自由意志がないという前提なら、犯罪とは脳腫瘍のような不可抗力、あるいは地震のような天災の一種みたいなもの、ということになる。制御不能なものであるという観点からいえば、これらは天災と同じだからだ。
このように、「責任の不在」は、「罪と罰」という概念の消失をもたらす。すると、社会は混乱に陥るのだろうか?「どうせ自分で決められない」と開き直った無責任な行動が蔓延し、秩序が崩壊する未来が待っているだろうか。必ずしも、そうとも限らないと私は思う。有害な人物を隔離する合理性は残るからだ。
たとえば罪のない「害獣」を駆除するのと同じ発想で、「社会にとって有害」な人間を隔離する政策が功利主義の観点から支持される。ここでも「責任」は必要ない。隔離政策が犯罪に対する抑止力を持つ限り、十分と考えられるからだ。したがって、現在の刑務所のシステムを変えないまま、名前を「刑務所」から「不運な人たちの隔離所」に名前を変えるだけでいい(これなら被収容者もちょっとは前向きになれるかもしれない)。
さらに、自由意志を否定することには意外な利点がある。自己の成功に対して謙虚になり、弱者に対して寛容になるという効果だ。自己責任という概念が崩れることで、人生の成功は宝くじの当たり外れと同じものに見えてくる。
これは、従来の「神の前での平等」とは異なる、新しい平等観をもたらすと私は思う。「誰も自分で選べない」という点において、すべての人間は平等だからだ。
また、この思想は社会福祉や再配分を正当化する根拠ともなりうるだろう(再配分を求めるアメリカの左派が、自己責任という価値観に依存し続けているのは皮肉である [脚注3])。
しかし自由意志の不在を受け入れるのは簡単ではない。人類は何千年もの間、このフィクションを前提に考え、行動してきたからだ。私たちが日常的に使用している言葉ですら、自由意志の存在を強く匂わせる「能動態」なしでは成立しない。では、どうすればよいか。ここで注目したいのが「中動態」という言語の概念だ。
中動態とは、「する(能動態)」と「される(受動態)」の中間に位置する表現であり、古代ギリシャ語やサンスクリット語に存在していた。英語にも “This book sells well” のような中動態的な表現がわずかに残っているし、日本語の「見える」や「聞こえる」もこのカテゴリーに入る。
先日のエッセイ(リンク)にも書いたように、言語は人々の思考の方向性に影響する。能動態は自由意志との関わりを想起させやすいが、中動態はそうではない。なので、私たちの言語から能動態を少しづつ減らしていき、かわりに中動態的な表現を増やしていけば、自由意志の幻想から少しづつ解放されていくのではないか。
もちろん、私の生きているうちにこうしたことが実現することはないだろうが、未来の人類はそのような方向に進むのではないかと私は予想している。
脚注
[1]
フランスの社会学者ポール・フォーコネ(1874–1938年)は、「犯罪者はスケープゴート(生贄)である」と考えた。ただし、彼の言うスケープゴートは従来の意味とは少し違う。普通なら「スケープゴート」といえば、「本当の犯人がいるのに、代わりに罰せられる無実の人」を指す。しかし、フォーコネの主張はこうだ――「犯罪者が責任者として選ばれるのは、複雑に絡み合った因果関係の中で、たまたま一番目立つからにすぎない」。つまり、犯罪者とは「社会秩序を維持するための生贄」という役割を押し付けられる存在なのだ。「お前が一番悪そうに見えるから、お前にしとこう」ということだ。
[2]
自由意志が道徳の基盤であるという考え方は、かなり根深い。カトリック神学がその一例だ。全能の神がいるのに、なぜこの世には悪が存在するのか。この積年の疑問に、カトリック教会はこう答えた。「それは人間に自由意志があるからだよ」と。要するに、「神が悪を作ったわけじゃない。人間が勝手に悪いことをしているだけじゃん」という話である。これで神の威厳も守られ、悪の存在にも説明がつく。なかなか巧妙に言い抜けたものだ。
この神学的解釈は、後の哲学にも影響を与えた。たとえば、イマヌエル・カント(1724-1804年)は自由意志を道徳の根本原理とみなし、「自由意志がなければ道徳は成り立たない」と断言した。彼は、「お前たち、自分で考えて行動しろよ。そのために自由意志があるんだよ」と言ったわけだ。
さらに現代の法体系も、この自由意志という思想を引き継いでいる。アメリカの最高裁判所にいたっては、自由意志を「法における普遍的かつ持続的な基盤」と言い切っている。たしかに、犯罪者に「いや、俺には自由意志がないんだ」と開き直られたら裁判もやりにくい。現在の道徳や法は、自由意志というフィクションによって支えられているのだ。
[3]
責任の不在を根拠に再配分を正当化することは、論理的に筋が通っている。この考え方は、リベラルな「平等主義」と相性が良く、特にアメリカの哲学者ジョン・ロールズ(1921-2002年)の『正義論』とも通じるところがある。ロールズによれば、社会や経済の不平等は最小限に抑えられるべきであり、許される場合でも、それが「一番不幸な人のためになる」場合に限る。つまり、不平等を容認するとしても、皆が「まあ、それなら仕方ないか」と思えるようなルールを作れと述べた。

 

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