エッセイ『社会の血管造影――所得は価値ではなく流路の影である』

要点

1 所得は人間の価値ではない。年収は魂の偏差値ではなく、どの貨幣血管に接続しているかの影である。太い動脈の横に座れば、人格がクソでも血は来る。

2 社会には貨幣流と機能流がある。金が激しく回っていても、介護、保育、清掃、物流が詰まれば社会は止まる。拍手されない毛細血管ほど、詰まると全員が青ざめる。

3 必要なのは道徳説教ではなく血管造影である。誰が偉いかを語る前に、どこへ金が流れ、どこへ機能が届き、どの渦が腫瘍化しているかを見る必要がある。

 

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1 所得は血管造影である

所得は、人間の価値を直接写す数字ではない。

それはむしろ、社会のどこに貨幣血管が走り、誰がその近くにいて、どの弁からどれだけ流量を取り込めるかを示す造影像である。

血管造影は、身体そのものを写すわけではない。造影剤を流し、どこに太い血管があり、どこが詰まり、どこに異常な血流が集まっているかを浮かび上がらせる。所得もそれに似ている。写っているものはあるが、それは人間の内在的価値ではない。社会の配管が、その人の場所にどう引かれているかの痕跡である。

金持ちは、多くの価値を生んだから金持ちなのだ、と考えられやすい。もちろん、そういう場合もある。

だが、それだけでは説明できない。

どれほど優秀な細胞でも、そこに血管が来ていなければ栄養は届かない。逆に、太い動脈のそばにいれば、わずかな弁でも大量の流れを取り込める。細胞の人格審査会が開かれているわけではない。ただ血が来る場所には血が来る。

ここで見たいのは、その人の場所に、どのような血管が引かれているかである。

富とは、価値を生んだ量である場合もある。しかし同時に、通過する貨幣を自分の所得へ変換できる弁の性能でもある。

だから所得は「人格の成績表」としてではなく、社会の血管造影として読むべきである。

2 貨幣は便利な圧縮記録である

そもそも貨幣は、複雑な貢献、負債、交換、信用の履歴を、持ち運び可能な一次元の数字へ圧縮したものである。

これは便利だ。昨日誰が誰の時間を節約し、誰が誰の危険を防ぎ、誰が誰の老後を支えたかを、社会全体で全部覚えておくことは不可能だ。

だから貨幣がある。つまり貨幣は、価値そのものではない。価値の一部を、かなり乱暴に圧縮して記録したものにすぎない。

ここを間違えると、年収や資産がそのまま人間の価値に見えてくる。だがそれは、粗い造影剤を見て、身体そのものを理解したつもりになるようなものだ。写っている血管はある。しかし、機能は見えにくい。

この非対称性が、社会を見る目を歪ませる。

3 貨幣流と機能流

社会には、少なくとも二つの流れがある。貨幣流と機能流である。

貨幣流とは、どれだけの金が通過したかである。

機能流とは、どれだけの生活、身体、知識、安全が実際に支えられたかである。

金融市場では大量の金が動く。介護では身体が支えられる。保育では親が働き続けられる。清掃では感染や不快が防がれる。物流では物が届く。教育では、まだ社会の取扱説明書を読めない小型哺乳類が、少しずつ社会で使える生物に変換される。

ここで重要なのは、動く金額と届く機能の量は一致しない、ということだ。

資本主義は貨幣流を精密に測る。売上、利益、時価総額、年収、GDP。数字はすぐに出る。グラフにもなる。前年比も出る。会議室のスクリーンに映せる。棒グラフが右肩上がりになると、人間はなぜか安心する。

しかし機能流は、停止するまで見えにくい。

介護が止まる。保育が止まる。病院が回らなくなる。清掃が消える。物流が詰まる。初めて、そこに社会の毛細血管があったことに気づく。

普段は誰も毛細血管に拍手しない。だが詰まると、突然みんな真顔になる。

この文章の中心はここにある。

社会の健康は、貨幣がどれだけ動いたかではなく、必要な機能が必要な場所へ届いているかで決まる。

4 社会を四つの部品として読む

社会を血管系として見ると、所得と価値のズレが見えやすくなる。

すべてをこの比喩で説明できるわけではない。しかし、少なくとも社会の構造は、四つの部品として読むことができる。流路、毛細網、貯水池、渦である。

流路とは、貨幣や資源を運び、外部へ機能を届ける構造である。送電網、物流、医療、通信インフラなどだ。そこへの入力を増やしたとき、社会の広い範囲で機能が増えるなら、それは流路である。

毛細網は、一地点あたりの貨幣流量は小さいが、接触面積が大きく、停止すると社会の末端が壊れる構造である。保育、清掃、地域交通、教育、食料供給がここに入る。価値が低いのではない。細かく分散しているため、太い貨幣流として見えにくいだけである。

貯水池は、平時には余っているように見えるが、危機時に機能を放出する構造である。備蓄、予備病床、余剰人員、非常用設備がそうである。

渦は、貨幣流量は大きいが、機能が小さい構造である。金は動いている。会議もある。報告書もある。監査もある。だが、それを一週間止めても、外の世界ではほとんど何も困らない。

ここで見るべきなのは、これらの構造を縮小したとき、社会のどこで何が止まるかである。

5 渦が腫瘍になるとき

渦は、ただ存在するだけなら局所的な非効率である。

会議が少し多い。書類が少し多い。人間社会ではよくある

問題は、渦が自己保存を始めるときだ。

自分を維持するために指標を増やす。規則を増やす。報告義務を増やす。監査を増やす。そして、それを処理する人を増やし、その人たちを管理する人を増やし、その管理を評価する仕組みを増やす。

ここまで来ると、渦は腫瘍になる。

ここでいう腫瘍とは、役に立たず、金がかかり、放置すると増殖する構造のことである。

自然界の川には、「川が流れていることを確認する副部長」はいない。人間社会にはいる。川はまだ流れている。人間の方が詰まっている。

ヴェブレンは、労働しないことが地位のしるしになる社会を見た。現代では、それが会議、指標、監査、組織運営という服を着て戻ってくる。

こうしたブルシット・ジョブは、現代の有閑階級である。

生産しない者が、生産する者より高い地位と報酬を得るという倒錯は、現代資本主義の例外ではない。昔から、労働しないことは卓越のしるしだった。現代では、それが忙しそうな予定表と、意味ありげなスライドと、誰も読まない報告書に変わった。

服は立派になったが、中身はだいたい同じである。

6 市場に任せてよいもの、いけないもの

市場を全否定する必要はない。

市場は強い「流路の探索装置」である。欲望を検出し、資源を動かし、新しい流路を作る。服、娯楽、嗜好品、便利サービスなどの領域では、市場はうまく働く。高すぎれば買わない。変な靴を買って足が痛くなっても、次は別の靴を買えばよい。

問題は、社会の前提条件まで市場に任せるときである。

医療、教育、水、電力、公衆衛生、基礎物流は、「買いたい人が買う商品」ではない。それが存在していること自体が、社会の前提条件である。

救急車の中で、人は病院を価格比較しない。子どもは教育サービスの合理的消費者ではない。感染症対策は、払った人だけを守る商品ではない。高齢者や病人や災害時の住民は、市場で冷静に選ぶ買い手ではない。選択の前に、すでに困っている。

このような領域で市場原理をそのまま使うと、貨幣流は太るかもしれないが、機能流は細る。

利益を上げるには、払えない人を切ればよい。手間のかかる人を避ければよい。平時に余って見える人員や設備を削ればよい。時間のかかる教育や予防やケアを、短期収益に変換しやすい業務へ置き換えればよい。

数字の上では効率化が進む。だが社会の毛細血管は痩せる。

教育や医療を市場に丸投げするのは、血管に「利益を出せ」と命令するようなものだ。血管の仕事は儲けることではない。届かせることである。

7 市場の内部にも市場だけではないものがある

市場の限界は、市場の外だけにあるわけではない。

市場で活動する企業でさえ、その内部を完全な市場として運営しているわけではない。同僚に仕事を頼むたびに小銭を払う会社はない。会議で発言するたびに課金され、うなずきは無料、反論はプレミアムプラン、雑談はオプション契約、などという会社はたぶん長くもたない。

企業の内部には、役割、信頼、慣習、暗黙の協力という非市場的な毛細網がある。

つまり、市場で勝つための組織ですら、市場だけでは動いていない。

近代資本主義は、教育や医療や福祉を単なるコストとしてではなく、労働者と消費者を作る基礎装置として必要としてきた。読み書きができ、病気で倒れず、最低限の生活保障を持つ人間がいて初めて、工場も会社も市場も動く。

にもかかわらず、その基礎装置を短期収益で削れば、資本主義自身の足場も痩せる。

市場は社会全体を作る原理ではない。市場は、すでに存在する毛細網の上で動いている。

ここを忘れると、足場を燃やしながらビルの高さを自慢することになる。たしかに上には伸びている。問題は、下が燃えていることである。しかも燃えている足場の上で、「今期も高成長です」と発表している。

8 資本主義は神ではない

資本主義は生物ではない。

したがって、自己保存の本能も、社会全体の健康を守る感覚もない。貨幣流を太くすることはできる。だが、その血が脳へ行くのか、腎臓へ行くのか、腫瘍に吸われるのかは関知しない。

資本主義には、意思がない。自動ドアは人を歓迎しているわけではない。ただ開いている。資本主義もそれに近い。流れる条件があれば流す。届くべき場所かどうかは知らない。

市場は、払える欲望には敏感だが、払えない必要性には鈍い。高級時計が欲しい人にはすぐ反応する。だが、金のない老人の介護、金のない子どもの教育、金のない地域の病院には急に耳が遠くなる。

だから必要なのは、資本主義を捨てることではない。資本主義を降格させることである。

神ではなく道具にする。

社会全体の血流制御を任せるのではなく、一部の流路探索に使う。資本主義は、欲望の匂いを嗅ぎつけて資源を動かす装置としては優秀である。だが、社会全体の臓器配分を任せるには危ない。鼻のいい犬に病院経営を任せるようなものだ。患者より先に売店の肉まんへ走る。

9 社会的免疫系

ここまで来ると、話は制度設計になる。

人間は、放っておけば病的な流路を作る。金が流れる場所には弁を作り、そこから自分の取り分を引き込む。さらに悪いことに、理念や被害者性でさえ、うまく使えば資源を引き込むための弁になる。

これは人間が特別に邪悪だからではない。利用できる流れがあれば、そこに位置取りをするというだけである。椅子があれば座る。権限があれば使う。予算があれば来年度も欲しい。

だから理想社会を作ろうとしても無駄である。

資本主義を壊しても、今度は官僚制、資格制、道徳市場、評価指標が腫瘍化するだけかもしれない。病理の媒体が貨幣から権限へ移るだけで、人間の自己増殖欲は消えない。

ならば、社会設計の目的は、完全に健康な社会を作ることではない。腫瘍化しやすい人間を前提に、社会的免疫系を作ることである。

役に立つの毛細網には、維持可能な貨幣を流す。危機時に必要な貯水池は、平時の効率だけで壊さない。金がかかる部門には、どれだけの機能を外部へ届けているのかを問う。指標、監査、資格、報告義務が自己増殖している場所では、「それを消したら何が止まるのか」を定期的に調べる。

金は回っているが役に立たない渦は縮小する。

低機能、高抽出、自己増殖、資源移転を同時に満たす構造は、腫瘍として切除する。

ここで必要なのは道徳説教ではない。造影、診断、経過観察、場合によっては放射線治療である。

10 年収表ではなく血管造影

格差とは、単に誰かが多く持ち、誰かが少なく持つことではない。

どの流路が太くされ、どの毛細網が干上がり、どの貯水池が破壊され、どの渦が腫瘍化したかという問題である。

社会は、年収表ではなく血管造影で読む必要がある。

社会の健康は、流量の総和では決まらない。必要な場所へ、必要な機能が届いているかで決まる。

所得は、人間の価値を示す数字ではない。社会のどこに、どのような血管が引かれているかを示す影である。

その影を見れば、人間の偉さではなく、社会の配管が見える。

人間を褒める必要も、罰する必要もない。

まず造影すればいい。