エッセイ『雑さの工学――文明とは、よく設計された粗視化である』

要点
 
• 文明とは、現実をそのまま見る勇気ではなく、現実を扱える雑さまで落とす技術である。人間はフル解像度の世界では生きられない。脳が先にオーバーヒートする。
 
• 料理番組は味覚を勝敗にし、スポーツは試合をスコアにし、物語は混乱を意味にし、数値は世界を競技場にする。人間は雑にされた現実を見ると、急に元気になる。
 
• 問題は、雑さを消すことではない。説明には火山灰から火山弾までのような粒度がある。細かすぎれば届かず、粗すぎれば人を壊す。社会に実装できる雑さの限界は、受け手の解像度で決まる。
 
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1. 文明は、よくできた雑さである
 
文明とは、よく設計された粗視化である。
 
世界は細かすぎる。あまりに情報量が多い。現実をそのまま見ようとすると、脳が先にオーバーヒートする。だから人間は、世界を数値にし、物語にし、制度にする。現実を保存するのではなく、人間と制度がどうにか扱える粗さへ変換する。
 
ここでいう粗視化とは、高解像度すぎる現実を、社会で運用できる低解像度の形式へ落とすことである。幻想とは、その粗視化が社会に共有され、人間を動かすようになったものだ。つまり雑さは欠陥ではない。雑さは、人間社会のインターフェースである。
 
人間は現実をフル解像度で見ているのではない。だいたい圧縮版を見ている。しかも、その圧縮版をしばしば「現実そのもの」と呼ぶ。図々しいが、文明はその図々しさの上に建っている。
 
2. 料理番組は、味覚を勝敗に変える
 
かつて『料理の鉄人』という番組があった。料理人が限られた時間で料理を作り、審査員が点数をつけ、勝敗を決める。私は当時から不思議だった。料理という、主観的で、多次元的なものを、どうして勝ち負けにできるのか。
 
失恋した日のラーメンと、給料日の寿司が同じではない。腹が減っていればコンビニのおにぎりでも天の恵みに見えるし、満腹なら高級フレンチは「皿の多すぎる拷問」である。それでも番組は平然と「勝者」だの「鉄人」だのと言う。
 
雑だ。
 
しかし、その雑さがあるから番組になる。味覚と文化と記憶を全部扱っていたら、料理番組ではなく民俗学会である。視聴率は静かに息を引き取る。多次元の感覚を、勝ち負けという粗い形式へ圧縮する。その乱暴な単純化によって、初めて人間は興奮できる。
 
スポーツも同じである。サッカーでは、九十分間支配していたチームが一発のカウンターで負けることがある。それでも人は熱狂する。複雑な試合内容が、最終的には勝ち負けに圧縮されるからだ。「内容では勝っていた」と言っても、スコアボードは内容をスルーする。
 
ゲームもそうだ。攻撃されれば、複雑な身体損傷は「HPが30減った」という数値に変換される。現実なら救急搬送だが、ゲームなら宿屋で一晩寝れば完治する。雑だが、その雑さがあるから遊べる。
 
娯楽は、現実を人が興奮できる粗さに変換する。人は、精密な現実そのものを愛していない。現実を処理しやすい雑さに変えてくれるものを愛している。人間には、少し軽量化された現実が必要なのだ。
 
3. 物語は、人生を持ち運べる雑さにする
 
人間は、人生を「旅」や「戦い」として語りたがる。
 
だが実際の人生は、ただの混乱である。偶然、体調、金、他人の都合、過去の記憶。それらがぐちゃぐちゃに絡まっている。
 
人生は、きれいな三幕構成ではない。どちらかといえば、冷蔵庫の奥で忘れられたタッパーに近い。いつからあるのか、なぜそうなのか、誰も正確にはわからない。
 
物語は、その混乱から情報を削る。原因と結果らしきものをつなぎ、主人公を置き、敵を置き、成長や意味を置く。「あの失敗があったから今の自分がある」と言えば、無数の偶然と無駄と傷は、成長物語に圧縮される。「社会は理不尽だ」と言えば、制度、個人差、運、能力差は、怒りへ圧縮される。
 
人は、複雑なままでは怒りにくい。怒るためには、世界は雑でなければならない。
 
物語とは、出来事を人が持ち運べる形に変えるものである。記憶のキャリーバッグである。中身は潰れている。
 
しかも物語は、人間を同期させる。宗教、国家、正義、会社、学校。人間は同じ物語に接続すると、同じ方向へ怒り、同じ方向へ祈り、同じ方向へ戦う。雑だからこそ動く。精密な現実は、人間を動かすには重すぎる。人間を動かすには、軽く、単純で、気持ちよく間違っている形式が必要になる。
 
4. 数字を見ると、人間は走り出す
 
世の中には、数字が神になった競技が多い。年収、論文数、大学ランキング、フォロワー数、GDP。人間は数字を見せられると、急に走り出す。
 
もちろん、年収で人間の価値が決まるわけではないし、論文数で知性の量が測れるわけでもない。そんなことは皆わかっているのに、数字が出ると急に必死になる。
 
比較できるものは競争になる。競争になると物語が生まれる。物語が生まれると人は興奮する。フォロワー数があれば発言の人気競争が生まれる。
 
数値化は、世界を競技場に変える技術であると同時に、人間を一定の方向へ転がす。論文数で評価されるなら、研究者は論文数に最適化される。いいねで評価されるなら、発言は承認されやすい形に変形する。年収で評価されるなら、人間は自分の人生を時給換算しはじめる。
 
数値は刃である。それは世界を切ることで見えるようにし、扱えるようにする。しかし、切った瞬間に失われるものがある。学歴は能力そのものではない。フォロワー数は思想の質そのものではない。それらは圧縮された代理指標にすぎない。
 
だが、社会は代理指標を実体として扱う。雑なものは速いからこそ広がりやすい。広がると、今度は常識の顔をし始める。そして人間は、常識に弱い。
 
5. 完全な理解は制度にならない
 
ここで「数値化は悪い」「ランキングは浅い」「人間は雑だ」と言って終わるだけなら簡単である。問題は、雑さがないと社会は動かないということだ。
 
診断名がなければ、医療は制度化できない。貨幣がなければ、広域の交換は成り立たない。これらは雑であるから使える。
 
完全な評価は制度にならず、完全な理解は共有されない。社会は真理より安定を優先する。制度を動かすには、哲学者が望むよりずっと早い地点で、思考を止めなければならない。
 
アカデミアは、しばしば粗視化を嫌う。例外を並べ、条件を増やし、但し書きを積み上げる。もちろんそれは必要だが、社会は但し書きの山では動かない。
 
パンデミックの最中に必要なのは、世界の複雑性を完全に保存した論文だけではない。結局、マスクをするのか、しないのか。明日から学校を閉めるのか。そういう雑な判断である。
 
雑にするしかない地点で、どう雑にするか。ここが問題だ。
 
6. 悪い雑さと、ましな雑さがある
 
雑さには質がある。鍵は、その雑さが人間をどの方向へ転がすかである。
 
「金持ちは偉い」は、人間を序列と侮蔑へ転がす。「制度は善意より強い」は、人間を制度設計へ転がす。どちらも雑だが、切ったあとの流れが違う。
 
雑さの工学とは、この勾配を設計することである。包丁が悪いのではない。問題は、それで刺身を作るのか、指を落とすのかである。
 
社会の説明にも粒度がある。火山学では、噴出物は直径によって分類される。2ミリ未満は火山灰、2〜64ミリは火山礫、64ミリを超えると火山弾や火山岩塊になる。同じ噴火から出てきたものでも、大きさによって名前も届き方も破壊力も変わる。説明も同じである。細かすぎる説明は灰のように舞うが、社会の手にはつかみにくい。ほどよい説明は火山礫のように持ち運べる。粗すぎる説明は火山弾のようにわかりやすいが、たいてい誰かを殴る。問題は、どの粒度の説明なら、現実を壊しすぎず、かつ社会に届くのかである。
 
どの程度まで雑にしてよいかは、社会の受け手の解像度にも左右される。国民の理解力が低ければ、粗視化はさらに粗くなる。「敵を倒せば解決する」「自己責任で片づく」「多数派は正しい」くらいの雑さまで落とさないと通らなくなる。つまり、社会が馬鹿であれば、社会に実装できる幻想も幼稚になる。
 
だから教育が重要になる。教育とは、人が雑すぎる物語に落ちないようにするための装置である。雑さを消す教育ではない。雑さの粒度を上げる教育である。国民の解像度が少し上がれば、社会に実装できる粗視化も少しだけましになる。
 
ここで教育と知識人の仕事はつながる。教育が受け手の解像度を上げる仕事だとすれば、知識人の仕事は、その解像度で受け取れるぎりぎりの粗視化を設計することである。粗すぎれば煽動になる。細かすぎれば誰にも届かない。
 
「世界は複雑だ」と言うだけなら簡単である。世界が複雑なのは当然だ。必要なのは、複雑性をできるだけ殺しすぎず、しかし人間が運用できる粗さへ変換することである。知識人とは、社会に実装されるべき雑さの設計者である。
 
これは、単に「わかりやすく説明する」という話ではない。わかりやすさは、しばしば現実を壊す。だが、わかりにくさは社会に届かない。だから必要なのは、正確さと運用可能性のあいだで、どこまで切るかを判断する技術である。
 
ただし、今ではこの仕事の一部を、知識人よりAIのほうがうまくこなすこともある。知識人が一つの切り方を提示する存在だとすれば、AIは無数の切り方を試作する工房になる。
 
7. 幻想とは、社会実装された粗視化である
 
国家、貨幣、人権、善悪などの幻想は、社会を動かす圧縮形式である。幻想だから無意味なのではない。幻想とは、社会実装された粗視化である。
 
問題は、その幻想を採用すると、人間がどの方向へ転がるかである。宗教は服従を生み、国家は暴力を正当化し、学歴はある能力を見えるようにし、別の能力を消す。自由意志という幻想は責任論を生み、善悪は裁きと排除を可能にする。
 
幻想は消せない。ならば、幻想を設計するしかない。そして、古い幻想を抱えたまま現実が変わると、何かがおかしくなる。古い地図を握ったまま、なくなった橋へ向かって行進するようなものである。
 
社会改革とは、社会が採用している粗視化を更新することである。
 
それでも人間は、カビが生えた幻想を真理のように守る。理由は簡単である。慣れた雑さは気持ちいいからだ。古い靴と同じで、だいぶ臭くても、本人にはなじんでいる。しかし、なじんでいることと、まだ使えることは違う。
 
8. マシな包丁を持つ
 
ここまでの話をまとめよう。
 
料理番組も、スポーツも、物語も、数値も、幻想も、やっていることは同じである。扱いきれない現実を、人間が興奮し、怒り、祈り、競争し、制度化できる粗さへ落としている。
 
すべて同じ構造である。
 
これからの知性の仕事は、「世界はもっと複雑だ」と言い続けることではない。そんなことは、わかり切っている。問題はその先である。
 
粗すぎる雑さは、人間を壊す。細かすぎる雑さは、社会に実装できない。人間は、精密な現実の中では生きられない。人間は、雑さの中でしか生きられない。ならば問うべきは、「どの雑さを選ぶのか」である。
 
ただし、この議論自体もまた、一定以上の解像度を持つ読者にしか届かない。雑さを設計せよという主張は、雑さを現実そのものだと思っている人間には通じない。ここにもまた、雑さの問題がある。
 
雑さの設計は、これからの思想、政治、教育、制度設計の中核をなすだろう。
 
ただし、その設計者もまた、別の雑さの中にいる。だから操作盤に触れる者に必要なのは、万能感ではない。自分が設計しているものもまた、暫定的な粗視化にすぎないという自覚である。
 
神の視点などない。
 
あるのは、少しマシな包丁と切りすぎた指だけである。