ロールモデルとしてのナルシシスト
孤独と自己創造、そして「嫌われる勇気」について

「自分自身の中に幸福を見つけることは難しい。だが、他のどこを探しても見つかりはしない。」——ショーペンハウアー
ナルシシズムを誤解してはいないか?
ナルシシズムは、世間的には欠陥人間、あるいは病気とされがちである。だが、そのレッテルの下には、より複雑で——場合によっては称賛に値するものが潜む。
本稿が提案するのは、ナルシシズムに対する見方の再構築である。私たちが安易に「ナルシスト」と呼ぶ人物の中には、実際には合理的な個人主義者——自己の価値観を自ら構築し、他者からの評価に頼らない人間——が存在するという視点だ。承認に依存する文化において、彼らの独立性は欠点ではない。むしろ、それは一種の自由である。
ニーチェ——構築された自信の技法
フリードリヒ・ニーチェの著書『この人を見よ(Ecce Homo)』には、次のような章題が並ぶ。
- 「なぜ私はこんなに賢いのか」
- 「なぜ私はこんなに利口なのか」
- 「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」
現代の読者にとっては、まるで上半身裸で自撮りするマッチョたちを彷彿とさせる。だがニーチェは、称賛を求めていたわけではない。彼は、遠慮のない自己肯定に対する我々の不快感そのものを前景化したのである。
彼の唱えた「超人(Übermensch)」は、ヒーローなどではない。他者から借り受けた倫理ではなく、自らの手で価値を創造する者である。
すなわち、他者の物差しを破壊し、自らの基準で生きることを選び取る者だ。
「善悪の創造者たらんとする者は、まず破壊者でなければならぬ。価値を粉砕せよ。」
——『ツァラトゥストラかく語りき』
これは傲慢ではない。道徳の合意そのものへの挑戦なのである。
オーダーメイドの物差し
私たちの多くは、「量産型の価値観」によって生きている。家族の期待、国家の神話、受け継がれた宗教、企業のミッション——いずれも既製品のフレームワークであり、便利ではあるが、私たち一人ひとりのかたちには合っていない。
一方で、それらに頼らず、自らの評価基準をゼロから築く人々もいる。目立つ必要はない。ただ、信念が必要だ。
そうした人間は、しばしば「ナルシスト」と呼ばれる。だがそのレッテルは、彼らの異常性ではなく、我々の不安感の表れなのではないか。
ナルシシズムには二種類ある
ここで、定義を明確にしておこう。DSM-5(精神障害の診断と統計マニュアル)における「病的ナルシシズム」は、以下のような特性によって構成される。
- 誇大的な自己像
- 限りない成功への幻想
- 絶え間ない賞賛への欲求
- 共感性の欠如
このタイプの自己は脆弱であり、外部からの評価がなければ保てない。
その典型例がドナルド・トランプである。彼の存在は、賞賛という真空パックに包まれた演出であり、拍手がなければ自己は崩壊する。
だが、私たちはこの「病的ナルシシズム」とは異なるものを混同しているのではないか?
ここで提唱したいのが、「合理的ナルシシズム(rational narcissism)」という概念である。
このタイプの人間は、自らの内面から自己価値を構築する。他者の賞賛を必要としない。なぜなら、その価値は外部から借りたものではなく、自ら築き上げたものだからだ。
自立は病ではない
実証的な研究(たとえば『Journal of Personality』2023年など)によれば、自律的に生き、自らの目標を選び取る人々は、より高い主観的幸福感、低い不安、そして高いレジリエンス(回復力)をもつ。
つまり、他人の拍手を必要としない人々の方が、よりよく生きているのである。
「ナルシシズム」という言葉の背後にあるのは、場合によってはアイデンティティの外注を拒む姿勢なのではないのか。
日本という文脈——調和と異端
このような「社会的な物差しへの抵抗」は、とりわけ同調を美徳とする文化圏では挑発的に映る。その最たる例が日本だ。過度に「和」が重視され、目立つことは利己的とされる。
その中で異彩を放ったのが、批評家であり東京大学元総長でもある蓮實重彦である。彼の名言「私は偉そうなのではなく、偉いんです」は、傲慢というより、社会が押しつける謙虚さに対する自作のスタンダードの宣言と見るべきだろう。
蓮實もまたニーチェと同様、「合意のゲーム」を拒否した。そしてニーチェと同様に、孤立し、誤解されるという代償を払ったはずだ。
だが、彼らの遺したものは、それでも既成概念の拒絶によってこそ残ったのも事実である。
これはただのエゴの正当化なのか?
当然のことながら、批判はあるだろう。
「誰もが自分の物差しを持ち出したら、世界はどうなる?」「全員が自分勝手に生きたら混乱するだけでは?」
もっともな懸念である。実際、ニーチェ自身もその危険性を理解していた。超人の概念には虚無、孤立、誇大妄想といった影も付きまとう。彼自身、そこから逃れられたわけではない。
だが、独善(solipsism)と自己完結(self-containment)は異なる。
合理的ナルシシズムとは、他者を支配することではなく、支配されないことである。社会規範、他人の期待、承認欲求といった構造から自由になることであり、存在論的な「ナッシュ均衡」を達成する試みなのである。
自分の物差しは、自分のためにある。他人を傷つけるためではない。
自由とは、誤解されることである
自由とは、疲れるものである。それは単なる選択ではなく、創造を要する。創造とは、称賛を、承認を、そして帰属をも拒絶する行為である。
だからこそ、日本でアドラー心理学を紹介した『嫌われる勇気』が、あれほどの反響を呼んだのだろう。そこに書かれているのは明快な真理だ——
「自由にはコストがある。その代償は、他者から嫌われることである。」
合理的ナルシシストは、その代償を受け入れる。いや、それを想定して生きている。なぜなら、その代わりに得られるのは「条件付き承認という地獄」からの解放だからである。
反感ではなく、範型として
合理的ナルシシストは完璧ではない。時に不遜で、奇矯で、理解しづらい。だが彼らは、稀有なものを手にしている。
それは、外から借りるのではなく、内から湧き上がる自己価値である。
SNSの「いいね」、業績評価、プロフィール欄の実績といった他人の物差しが溢れる世界において、それは革命的だ。
ショーペンハウアーの言葉は正しい。幸福を内面に見つけるのは困難である。
だが、もし幸福が存在するとすれば、それは内面にしか存在しない。
合理的ナルシシストは、反面教師ではない。
私たちがいまだ見ぬ、本当の自由の姿を先取りする存在。
——それは、目指す価値のあるロール・モデルとしての姿ではないだろうか。