反出生主義を超えるカギは「禅」

 

“生まれないこと、それを考えただけで、なんという幸福、なんという自由、なんという広やかな空間に恵まれることか! “

—–『生誕の災厄』 エミール・シオラン

 

反出生主義という考え方がある。要するに「人は生まれてこないほうがいい」あるいは「子どもを産まないほうがいい」という思想だ。

この考え方は、人気上昇中だそうであ。。たしかに、人生なんて苦痛ばかりだし、快楽はたいして長続きしない[脚注1]のだから、理解できなくもない。

反出生主義論拠の根拠は、以下の3点に集約される。

1. 人生には避けられない苦痛が伴う[脚注2]

苦痛は存在することによって必然的に生じ、それ自体が悪である。

2.快楽の欠如は悪ではない

存在しない者にとって、快楽の欠如は何の問題ももたらさない。この点で苦痛と快楽には非対称性がある。

3.この非対称性に基づき、生まれてこないほうが倫理的に望ましい

新たな生命を生み出すことは、避けられない苦痛をもたらすため、倫理的には避けるべきである。

反出生主義を肯定すると、論理的な帰結として、以下のような考え方も肯定せざるを得なくなる。

この世に存在すべき人間の理想の数は、「0人」

・人間ばかりでなく、苦痛を感じうるあらゆる生き物は、この世に生まれてこないほうが良い

これを見ると、反出生主義がずいぶん過激な思想であることがわかる。

これに対する反駁として私は「苦痛は、将来、意味のあることに変わる可能性がある」と考えることができるのではないかと思っていた。しかし、よく考えてみると「ピーク・エンドの法則」によってこの考え方は怪しくなる。つまり人は「苦痛の継続時間」を覚えていないので、「後になってから過去におきた苦痛を振り返っている自分」は、当時の苦痛を正しく評価していないからだ。

認めたくないことだが、反出生主義への反駁が難しい最大の理由は、それが「正しい」からではないだろうか。ここで言う正しさとは、論理的な(つまり理性的な)正しさである。にもかかわらず、ほとんどの人はこの思想を感情的に「間違っている」と感じる。反出生主義が興味深いのは、感情と論理が最も先鋭な形で対立する問題だからだ。

そもそも地球に生命が存在することが、大いなる偶然だ。偶然が合理性と対立するのは、仕方ないとも言える。

では、反出生主義の呪縛から抜け出したい人は、どうしたらよいのか。反出生主義の議論をさらに深めることは、むしろその論理の罠にはまるリスクを伴う。そのため、ここでは議論を超越し、東洋哲学的なアプローチによって問題を相対化するのが有効かもしれない。そこで「」に目を向けてみよう。

たとえば、瞑想したり、何かに深く集中しているとき、「自分」という存在が一時的に消え去り、世界との一体感が生まれることがある。たとえば、アイロンがけに集中しているとき、「私」は消え、アイロンそのものと一体化する瞬間があるだろう。そのような瞬間、心が穏やかになり、日常の煩わしさから解放される。美しい花を見たときにも、同様に「自分」は消失している脚注3]。

また、瞑想を続けると、「自分が認識している世界」は実際には自分の心に映し出された現象に過ぎない、ということを実感することがある。苦痛も快楽も、「自分」という存在がいるからこそ生じる。しかし、禅的な無我の境地では、その「自分」が一時的に消える

つまり、禅は「苦痛を感じる私」そのものを消す。こうして反出生主義の問題自体を超越するのだ。もっとも、油断していると反出生主義的な考え方が再び脳裏をよぎるかもしれない。そんなときはもう一度、アイロンをかけたりする必要がある。そう考えると、毎日の雑事は、反出生主義と戦うための最強の武器なのかもしれない。

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脚注

[1]

こうなってしまう理由は、そもそ生き物が、子孫を残すためにデザインされている一方、幸福になるようにはデザインされていないからだ。侵害刺激を避けることは生存に直結するため、下等生物であっても苦痛をしっかり感じるようにデザインされている(たぶん)。

他方、幸福感は長続きしない上に、慣れてしまう。収入がある程度を超えると、人々の幸福度はほとんど変わらないこともわかっている(イースタリン・パラドックス)。

 

[2]

「苦痛を最小化すべき」という考え方は、昔からある。たとえば快楽主義で知られる古代ギリシャのエピクロスは、快楽とは苦痛のない状態と考えた。仏教では、人は輪廻転生により苦しみが繰り返されるため、解脱して二度とこの世に生まれてこないこと(涅槃)を目標とする。また、科学哲学者カール・ポパーは「人々の幸福を最大化するのではなく、社会に存在する苦しみの最小化が大事だ」と主張している。

 

[3]

私たちは美しい花を見て、「おお、綺麗だ」と我を忘れる瞬間がある。そのとき、実はそこにあるのはただの「経験」だけだ。「言葉」もなく、「私」もなく「花」もない。ただぼんやりとした幸福感が広がるのみ。ところが、この感覚を後から振り返ると、なぜか「私」というものがしゃしゃり出てきて、「あの桜は美しかった」とか言い始める。まるで「桜を見たのは俺だ」と主張しなければ気が済まないかのように。西洋思想は、この後付けで現れる「私」という仮構物をあたかも前提であるかのように捉え、そこから思考を始めてしまう。そのため、西洋からは禅のような思想が出てこない。