善悪は好き嫌いにすぎない

かつて私は高校生に数学を教えていた。ある日、昼休みに生徒同士で大喧嘩があり、私の授業は険悪なムードの中で始まった。そこで私は、「世の中には『私が正しく、お前は間違っている』と言い合う人たちがたくさんいる。でも、それは結局のところ『俺は自分の考え方が好きだ、お前の考え方は嫌いだ』と言っているのと同じなんだよ」という趣旨の話をした。
その後、生徒の一人が「先生の話のおかげで仲直りできました」と言ってくれた。
私が何をどう話をしたのか、以下に補足を加筆した形で記す。
私たちの道徳的判断は「好き嫌い」に基づいている。これを裏付けるのは、心理学の「単純接触効果」と「サルとしての本能」である。
単純接触効果とは、何度も接触する対象を好きになってしまうことだ。ロバート・ザイアンスの実験では、被験者が無意味な単語や図形を提示される回数が増えるほど、それらに対する好感度が上がることが確認された。日常生活でも、繰り返し見る広告や頻繁に会う人々に親しみを感じるのはこの効果の一例である。
生徒が学校で同じクラスの異性を好きになったり会社員が社内恋愛するケースは多い。そんなとき相手に「どうして私が好きなの?」と聞かれたら「毎日見ているから」と答えるのが、認知心理学的には正しい(あまりロマンチックな回答ではないが、えてして真実とは味気ないものである)。
これは善悪判断も同様で、私たちは頻繁に接触する価値観や文化を「好き」あるいは「善い」と感じ、逆に馴染みのないものを「嫌い」あるいは「悪」とするクセがある[1]。
さらに、本能も善悪判断に影響する。たとえば、サルが不平等な報酬に対して怒りを示す行動は、平等や公平を「善」とする感覚が私たちの生物学的基盤に由来していることを示唆している
[2]。
おそらく平等という概念は、人類の叡智の結晶などではなく、単に私たちが進化の過程でサルだった頃の本能を再発見し、崇高な概念だと思い込んでいるものなのだ。つまり私たちが「正しい」と感じる平等や自由のような道徳的価値観は、こうした生得的な好き嫌いにも根ざしている。
こうした議論に対して「善悪は普遍的な倫理や理性に基づくべきだ」という反論があるかもしれない。たしかに「地球は丸い」といったような科学的な言説や数学の命題のように、好き嫌いではなく証拠や論理で決まる「正しさ」もある。
しかし、道徳的な善悪判断はこれとは異なり、文化的背景や個々の経験や感情、さらには本能で決まるため、その基盤が好き嫌いにあることを否定することは難しい。
「教育が善悪判断を導く」という意見もあるだろうが、教育そのものが社会や文化の価値観を反映したものである以上、そこにも感情的な好みが深く関与している。
このように善悪判断が好き嫌いに基づくという視点を持つことは、多様な文化や価値観に対する寛容な態度を育む助けともなる。
私の生徒たちがこの話を聞いたことで仲直りした事例からも分かるように、「善悪イコール好き嫌い」という視点は世の中の対立を解消し、調和を生むきっかけとなるのではなかろうか。
余談だが、私はいまだに生徒たちの喧嘩の原因を知らない。争いの詳細を知らなくても争いを解決できることを、私はこのとき初めて知った。
脚注
[1]
単純接触効果は、進化という視点から理解することができる。未知の対象に対する警戒は、進化的に生存に有利な反応であると考えられるからだ。他方、繰り返し接触する対象は、敵意や危険性が低いと判断されるため、自然に好感度が高まる。このような傾向は、進化的に安全であると認識されるからだ。
親しい人の行動には寛容であり、親しくない人の同じ行動には批判的になることも、単純接触効果で説明できる。対象への接触頻度が高いほど「好き」という感情が生まれやすく、その対象が「良い」「正しい」と判断されやすくなるからだ。メディアで頻繁に取り上げられる人物にはポジティブな印象を持ちやすい傾向があるのもそのためで、かつてのテレビタレントが政治家に当選しやすい理由でもある。
[2]
サルが不平等な報酬に対して怒りを示す行動に関する実験は、フランスの心理学者ジャン=マリ・フッセとフランソワ・ジャンによるものが有名だ。この実験は、2匹のカニクイザルを使って行われた。初めに、両方のサルには同じ種類の報酬(葡萄)を与え、その後、もう一方のサルには不平等な報酬(キュウリ)を与えるという形で実験が進められた。報酬が不平等であることを認識したサルはキュウリを投げ捨てるなど、強い不満を示した。
この行動は、サルが報酬の平等性に対して強い反応を示し、自己と他者との間に公平性が求められているという本能的な感覚をもつことを示している。