書籍レビュー『平和と愚かさ(東浩紀著)』

概説

本書は、平和を「戦争がない状態」ではなく、「戦争について考えないことが許される状態」として捉え直す一冊である。東浩紀は、正義、責任、加害と被害、ナショナリズム、原子力、AI、幻想といった論点を横断しながら、人間の知性と倫理への過信を疑う。ここで問われるのは、愚かさの否定ではない。むしろ、人間の限界を前提にしたうえで、「考えないこと」をいかに制度・技術・節度として設計するかである。本稿では、その不快だが整合的な思想を整理する。

 


本書は、平和を称揚する本でも、戦争を告発する本でもない。むしろ本書は、「平和とは何か」「正義とは何か」と問うことそれ自体が、すでに暴力に近づいているのではないか、というきわめて居心地の悪い地点から思考を始める。そのため本書は、読者に倫理的な安心感も、わかりやすい結論も与えない。

 

本書の基調にあるのは、人間を過大評価するのをやめようという冷えた現実主義だ。人間は合理的でも、全体を配慮できる存在でもない。むしろ人は、考え続けることに耐えられず、賢さへの要求が過剰になると不安から逃走し、より深い愚かさへと落ちていく。冒頭で提示される「平和と愚かさはいずれも〈考えないこと〉の表現である」という逆説は、本書全体を貫く設計原理になっている。

 

ここでいう「考えないこと」は、無知や怠惰の擁護ではない。東はむしろ、執拗なまでに考える。ユーゴスラヴィア内戦、ルワンダ虐殺、ウクライナ戦争、原爆、731部隊、チェルノブイリ、博物館展示、ナショナリズム、認知戦、中動態、原子力、AI、動物倫理など、論点は多岐にわたり、記述も具体的で、ときに過剰ですらある。本書が分厚くなった理由は明確で、「考えないこと」の価値を示すために、あらかじめ考え尽くしておく必要があるという倒錯した条件を、著者自身が引き受けているからだ。

 

本書の核心は、平和を「戦争がない状態」ではなく、「戦争について考えないことが許される状態」として再定義する点にある。平和から戦争への移行とは、武力衝突の開始ではない。「みなが戦争について考えねばならなくなる」状態への移行である。一度この移行が完了すると、かつての平和は「悪の放置」「無自覚な加担」としてしか回想できなくなる。戦時下では、反戦や平和への志向そのものが、戦争の一部になってしまう。この逆説が、本書では徹底して掘り下げられる。

 

東が繰り返し警戒するのは、単純な二分法だ。加害/被害、正義/悪、平和/戦争といった区分は思考を楽にするが、現実を歪める。ユーゴスラヴィア史やウクライナの事例が示すように、現実の歴史では、誰もが被害者であり、同時に加害者でもありうる。その複雑性から目を背けるために、人は「犠牲者意識ナショナリズム」に逃げ込む。現代のナショナリズムが英雄譚ではなく被害の物語を核に成長するという指摘は、かなり不快だが、否定しがたい。

 

中動態の議論も、本書の危険な中核をなす。そこでは、意志と責任の結びつきが部分的に解体される。悪は、主体的に選ばれた結果としてだけでなく、「やりたくなかったが、やってしまった」という形でも成立する。原子力の議論が示すように、行為と結果の連結が断たれた技術の前では、善意か悪意かという区別自体が意味を失う。ここで東が提示するのは、ペシミズムの倫理的利用である。まず破局は避けられないと信じること。その前提に立ってはじめて、破局を少しでも遅らせる努力が可能になるという、反直感的な論理だ。

 

終盤で語られる「世界は幻想だが、人間にできるのは幻想で世界を覆うことだけだ」という一節は、本書の人間観を決定づける。幻想は欺瞞ではなくUIであり、テーマパーク化は堕落ではなく生存条件である。人間には世界全体を配慮する能力などない。左派も知識人も例外ではない。だから必要なのは真理の到達ではなく、裏方と客、ソースコードとアプリケーションを切り替える能力なのだ。

 

広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰返しませぬから」という主語なき言葉を、東は「ごまかし」と呼ぶ。そのうえで、平和とはそうしたごまかしの積み重ねでしかありえないのではないか、と問う。この一節は、本書の立場を最も端的に示している。正しさを徹底すれば、平和は壊れる。その不快な事実から、著者は逃げない。

 

『平和と愚かさ』は、知性を否定しない。しかし、知性を信仰もしない。人間の限界を冷静に前提にしたうえで、「考えないこと」を制度として、技術として、節度として再設計しようとする、きわめて不親切で、だが誠実な本である。

読後に残るのは救いではない。だが、思考の使いすぎで壊れてきた世界に対する、冷酷なまでに整合的な仕様書が、ここにはある。