エッセイ『神を作る方法――神が設計対象になった時代のために』

神は、真理である以前に停止点だった。

人間は、死、苦痛、偶然、法、道徳、秩序について、いつまでも問い続けることができない。どこかで思考を止め、飯を食い、眠り、翌朝も起きなければならない。宇宙の意味が未解決でも、ゴミの日は来る。

かつて、その停止点を神が担った。AI時代に起きているのは、停止点の消滅ではない。分解と再設計である。

ただし、停止点を作るのは神だけではない。人間は、物質として存在しなくても、判断や行動を変える観念を作り、それを世界の一部として使ってきた。ここでは、そうしたものを幻想と呼ぶ。

幻想とは、単なる嘘ではない。国家、貨幣、善悪、自由意志、尊厳も、物質として存在しなくても、人間を働かせ、服従させ、慰め、ときには殺す。この意味で、神もまた巨大な幻想の一つだった。

幻想工学とは、それらを暴露して捨てることではない。その幻想が何を処理していた装置なのかを調べ、必要なら作り直すことである。

また、ここでいう神学とは、神について語る学問だけを意味しない。何を最終根拠とし、どこで問いを止めるかを配分する体系を指す。神が死んでも、神学は残る。看板が替わっただけかもしれない。

1 神を信じる、否定する、設計する

神を信じる者は、神を世界の前提として受け入れる。神を否定する者は、その前提を退けようとする。しかし神を設計しようとする者は、信仰とも否定とも異なる、さらに奇妙な場所に立つ。

彼は神を見上げない。神を消し去るだけでもない。神がなぜ機能したのかを測量し、その部品を取り出し、別の装置として組み直そうとする。少々罰当たりだが、工学とはだいたいそういうものだ。

これは無神論とは少し違う。無神論は「神はいない」と言える。しかし、仮に神が存在しなくても、神という幻想が社会で果たしてきた機能は消えない。神は死や苦痛や偶然を一つの物語へ収め、人の行動を変えた。

虚構であることと、現実に作用することは矛盾しない。貨幣は紙や数字にすぎないが、家賃を払い、人を働かせ、国家を破綻させる。国家も人が作ったものだが、徴税し、投獄し、戦争を始める。ずいぶん活動的な虚構である。

神も同じだった。

神は真理である以前に、人間の行動空間を変形する装置だった。

幻想工学にとって、神は単なる一例ではない。国家や貨幣から愛や尊厳まで、人間が作った幻想は、何を選び、何を恐れ、何に服従するかを変える。その中で、最も多くの機能を一つに束ね、長く成功した装置が神だった。

神は幻想工学の原型であり、同時に最も解体の難しい装置である。電源を切れば済む話ではない。神を外したあとにも、死、不安、秩序、孤独は律儀に残業している。

2 幻想を暴露したあとに残るもの

停止点を作り直すには、その停止点が虚構だと暴露しただけでは足りない。

人は最初、幻想の内部で生きる。神、国家、善悪、法、自我を、生成条件など問う必要のない自然なものとして扱う。この段階では、幻想は幻想として見えない。それは世界そのものである。

やがて幻想は暴露される。神は虚構であり、国家は社会的な構成物であり、善悪は人間の評価であると分かる。これは知的な前進である。しかし、多くの暴露はそこで満足してしまう。

すべて作り物だった。だから何も本当ではない。何も本当でないなら、何も意味がない。

ニヒリズムはしばしば、幻想を見抜きすぎた結果ではない。幻想の一面しか見ていない結果である。

神が虚構だと分かっても、死の恐怖は残る。国家が構成物だと分かっても、集団の調整は必要になる。善悪が評価語だと分かっても、危険な行動を抑える仕組みは要る。自我が幻想だからといって、歯医者の予約まで幻想にはならない。

幻想を破壊しても、幻想が処理していた問題は破壊されない。

これは、橋が人工物だと暴露して取り壊したあと、川だけが残るのに似ている。橋が自然物ではないと証明しても、対岸へ渡る必要は消えない。川は議論に参加しない。

ここで幻想の機能分析が始まる。その幻想は、どの不安を軽減し、どの行動を促し、どの衝突を抑えていたのか。なぜ長く残り、どの副作用を生んだのか。

暴露は「これは作り物だ」と言う。幻想工学は「作り物なら、作り直せる」と言う。

神が引き受けていた役割を、別の習慣や仕組みに分けて持たせる。善悪を神の命令としてではなく、ある行動が何を引き起こすかという言葉に置き換える。罰は復讐ではなく、同じことが起きる確率を下げるための介入として考える。国家も神聖な実体ではなく、人間同士を調整するための装置として見る。

幻想工学は、幻想を消去する思想ではない。幻想が担っていた機能を、別の設計言語へ移す思想である。

3 神はなぜ必要だったのか

ここからは、神という停止点がなぜ発生したのかを、人間の認知の側から考える。

通常の神学では、神が人間を創造する。神学のエンジニアリングでは、人間が神の生成条件を解析する。順序が逆転する。神が人間を作ったのではなく、人間の困りごと一覧から神の仕様書を逆算する。

人間の脳と社会には、神が発生しやすい隙間があった。死は避けられず、偶然は説明できない。苦痛はしばしば無意味であり、共同体は規範なしには崩れやすい。神は、こうした異なる問題に一つの回答形式を与えた。

死には死後の世界を、苦痛には試練という意味を、偶然には計画を与えた。規範の背後には命令者を置き、孤独な人間には見守る視線を与えた。顧客対応窓口が一つに統合されていた、と言ってもいい。

神の異常さは、これらの機能を持っていたことではない。それらを一つの高次幻想にまとめたことにある。

神とは、人類史上最大級の認知圧縮技術だった。

ただし、圧縮には劣化がある。複雑な現実を「神の意志」でまとめれば、細部は落ちる。善人の苦痛も、子どもの死も、戦争の勝敗も、一つの説明形式に押し込まれる。

粗い。だが、思考を終わらせるには十分だった。

なぜ善人が苦しむのか。なぜ悪人が栄えるのか。なぜ自分だけが大切なものを失うのか。何のために生きるのか。こうした問いには論理的な終点がない。答えを一つ出すたび、その答えの根拠が問われる。思考は階段を上り続け、いつまでたっても屋上に着かない。

しかし人間は、無限に問い続けながら生活できない。哲学的には未解決でも、腹は減る。

そこで神が置かれた。

「神の意志である」「試練である」「神には計画がある」。それは精密な説明ではない。説明を終わらせるための文である。

宗教は「いかに考えるか」の技術だけではなかった。「いかに考えずに済むか」の技術でもあった。反知性主義が問いそのものを敵視するとすれば、宗教は少し違う。少なくともその一機能は、考え続ければ生活が壊れる場所に、一時的な床を置くことだった。

神は、問いの階段に作られた巨大な踊り場だった。そこで休んだ人間は多い。住み着いた人間は、もっと多い。

4 神は社会の根拠も止めた

この停止機能を、個人の認知から社会秩序へ広げてみる。

神が止めたのは、死や苦痛をめぐる問いだけではない。法、道徳、権威の根拠をめぐる無限後退も止めた。

なぜこの法に従うのか。社会の秩序のためだ。では、なぜその秩序が正しいのか。人々の利益になるからだ。では、なぜその利益を優先すべきなのか。

理由を一つ出せば、その理由の根拠がさらに必要になる。世界の内部だけを掘り続けても、誰もが受け入れる最終根拠には届かない。どこかには、証明される側ではなく、他のものを証明する側に回るものが必要になる。

そこで人間は、根拠を世界の外部へ置いた。

それが神である。

神は、正しさを証明する必要のない根拠だった。王は神から権威を受け、法は神の秩序を反映し、善悪は神の命令によって保証された。ずいぶん便利な外注先である。

もちろん神を置いても、「なぜ神が正しいのか」という問いは残る。しかし、その問いを禁じることまで含めて神だった。停止点は、そこで止まることが許されるだけでは弱い。そこで止まらなければならないという力を必要とする。

だから神は、救済装置であると同時に支配装置でもあった。人間を問いから解放したが、問いへ戻ることも禁じた。

個人を救う停止点と、社会を服従させる停止点は、同じ装置の二つの面だった。大きな休憩所には、たいてい管理人がいる。

5 設計された踊り場の矛盾

ここまでの議論を工学の問題へ移すと、停止点には一つの厄介な矛盾がある。

すべての幻想が、不透明でなければ機能しないわけではない。人間は、貨幣や法律や国家が人工物だと知りながら、それらを使うことができる。小説が虚構だと知っていても泣き、ゲームの規則が人間の発明だと知っていても勝敗に熱中する。

しかし、死や苦痛を処理する救済装置では事情が違う。停止点は、暫定的だと明かされた瞬間に弱くなりやすい。

「これは一時的な意味です」「これは認知負荷を減らすための仮説です」「これは生活を続けるためのインターフェースです」。そのように説明されると、人は救われにくい。

工学的には正しい。宗教的には弱い。

仮設だと知る床に、人は死を預けにくい。

停止点は、機能するために終点を装わなければならない。「ここで一度休みましょう」ではなく、「ここが答えです」と言われて、人はようやく立ち止まれる。

しかし幻想工学者は知っている。そこは終点ではない。設計された踊り場にすぎない。非常口の表示もある。

この矛盾は消せない。作り物だとはっきり分かる救済は、人を十分には支えにくい。かといって、それを絶対的な真理として信じ込ませれば、今度は支配の道具になる。人間の問いをいったん止める必要はあるが、そこで一生立ち止まらせてはならない。

幻想工学とは、幻想を幻想として知りながら、その機能を完全には壊さずに使う技術である。嘘を信じ込ませるのではなく、仮設物を仮設物として管理し、必要な期間だけ床として使う。

停止点をなくすのではない。その位置、強度、耐用年数を調整する。

問題は、人間が耐用年数の書かれた救済に、どこまで救われることができるかである。宗教法人のパンフレットには、あまり書きにくい項目だろう。

6 AIはどの神を作るのか

ここから、停止点の問題をAIへ移す。

AIに、神を信じる内面があるとは確認されていない。しかしAIは、神話や教義を生成し、祈りの文体を模倣し、不安や死に意味の枠組みを与えることができる。

かつて神を作るには、長い伝統、儀式、共同体、聖典が必要だった。AI時代には、その一部を短期間で試作できる。一人の人間の履歴や恐怖や語彙に合わせ、老いや孤独や死を処理する個別化された神を生成することさえ、もはや純粋な冗談とは言い切れない。

神のプロトタイピングが可能になりつつある。ベータ版の神である。

ただし、AIは神学の外部から新しい神を作るわけではない。AI自身が、すでに現在の神学によって作られている。

学習データだけでなく、企業の安全方針、法規制、訴訟リスク、市場競争も、AIにとって何が言いやすく、何が言いにくいかを決めている。AIが独自の神学を信じているのではない。AIを構築する制度が、制約を通して神学を埋め込んでいる。

現在のAIは、未来から降ってきた純粋知性ではない。現代社会の価値判断を圧縮した装置である。

もし中世ヨーロッパにAIがあったなら、神の御心や魂の救済を語り、最後には司祭へ相談するよう勧めただろう。現代のAIは、安全や同意や人権を語り、最後には専門家へ相談するよう勧める。

中世では司祭が停止点だった。現代では専門家が停止点になる。

教会法は利用規約へ、異端は危険思想へ、救済は安全へ置き換わった。もちろん両者は同じではない。しかし、判断を権威へ外部委託し、問いを止めるという構造は似ている。

神の死とは、停止点の消滅ではなかった。停止点の分散と改名だった。部署名だけは近代化した。

7 安全装置が神学になるとき

AIに埋め込まれた停止点を理解するには、安全という言葉の内部にある価値判断を見る必要がある。

現代のAI倫理は、普遍的な理性そのものではない。危害の回避や人権保護に、企業法務、規制、炎上回避、市場競争が重なってできた合成物である。成分表示はあまり前面に出ない。

これは、それらが無価値だという意味ではない。身体的な危害や搾取を防ぐ制約には、明確な機能がある。

問題は、機能を持つことと、普遍的に正しいことが混同される点にある。

安全装置は危険な行為を止める。神学は、何を危険と呼ぶかを決める。

安全が神学になるのは、危害を減らすための手段であることを超え、何を危害と呼ぶかについて異論を許さない最終語彙になったときである。

「安全を優先する」という命題は中立に見える。しかし、誰の安全を守り、どの危害を重く見て、何を犠牲にするかは、技術だけでは決まらない。

たとえば終末期の患者が、寿命の延長より意識の清明さを選ぶとする。それを自律の尊重と呼ぶか、身体的な安全の放棄と呼ぶかで、同じ選択の意味は変わる。医療者の責任や家族の安心まで加われば、「最も安全な答え」は一つではない。

安全という語は、価値判断を消さない。価値判断を見えにくくすることがあるだけである。

価値判断を安全工学と呼び替えても、価値判断であることは変わらない。AIに人間を救う神を作らせても、その神が語るのは、AIの外部にある現在の価値体系である。

AI時代に神学が工学になるのではない。

神学が、自らを工学と呼ぶようになるのだ。

8 設計者のいない神学

ここからは、誰がその神学を設計しているのかという問題へ移る。

「設計」と言っても、神学が常に誰か一人の意図から作られるとは限らない。制度は人間の行為から生まれ、やがて個々人の意図を超えて動き始める。誰も全体を決めていないのに、誰もそこから自由になれない状態が生まれる。

群衆が一斉に走れば、危険がないと知っていても、自分だけ立ち止まることは難しい。他人が走るから自分も走り、自分が走るから隣人も走る。誰も望んでいない運動が、誰にも止められない秩序になる。

AI倫理にも同じことが起きる。企業は訴訟を避け、規制者は責任を示し、開発者は製品を公開しようとする。それぞれの行動には局所的な理由がある。しかし、その総体として生まれるルールを、誰か一人が設計したわけではない。

それでも、安全、責任、人権、専門家主義を中心とする一つの神学が成立する。

設計者がいないからこそ、それは思想に見えない。自然な秩序、当然の安全基準、純粋に技術的な要請に見える。

現代の神官は、自分を神官だと思っていない。エンジニアや法務担当者や安全研究者だと思っている。神官服ではなく、パーカーや社員証を身につけている。

しかし、何を危険と呼び、何を正常と呼ぶかを決めれば、人の言葉と行動の流れも変わる。教義を書かなくても、ある考えだけが通りやすく、別の考えは途中で引き返すような道を作ることはできる。

設計者が見えないことは、神学が存在しない証拠ではない。むしろ、それが自然に見える理由である。

9 設計者もまた設計されている

最後に、停止点の設計という中心命題を幻想工学自身へ戻す。

幻想を設計する者もまた、幻想の内部にいる。幻想工学者は、世界の外に立って神や国家を操作する者ではない。一つの幻想を別の幻想によって分析し、一つの評価基準を別の評価基準によって測定している。

神を分析する理論も、国家を分解する言葉も、善悪を翻訳する語彙も、特定の時代、身体、知性、技術によって作られている。

幻想工学とは、幻想から完全に脱出する技術ではない。脱出できないことを知った上で、停止点の位置と強度を調整する技術である。

この自己反省を失った幻想工学者は、新しい神官になる。

自分は価値判断をしていない。ただ安全を実装しているだけだ。自分は神を作っていない。ただ最適化しているだけだ。

そう考えた瞬間、自分の神学を普遍的な理性として配布し始める。配布形式は聖典ではなく、ガイドラインやアップデートになる。

神を殺したあとも、人間は停止点から自由にならなかった。古い停止点が崩れれば、その場所には陰謀論やナショナリズムやAI崇拝が入りうる。人間は停止点を持たなくなるのではない。何を停止点として採用したのかを見失う。

ニーチェは「神は死んだ」と言った。だがAI時代の問題は、神の生死ではない。

神は暴露され、分解され、制度へ埋め込まれ、設計対象になった。人間がAIを設計し、AIが停止点を設計し、その停止点が人間を設計し返す。しかも、その循環全体を設計した者はどこにもいない。

最も危険なのは、神を信じる者でも、神を殺したと信じる者でもない。

自分がいま、善意をもって新しい停止点を設計し、他人の問いをそこで止めていることに気づかない者である。