オナニスト宣言

<「いま」の悦び──記憶は嘘をつき、身体は知っている>
ぶっちゃけ私たちは、自分で思ってるほどには賢くない。
少なくとも、自分自身の人生に関しては。
記憶はしばしば事実を歪め、「内なる語り手」は、自分史をまるで三流脚本家のように書きかえる。そして私たちは、その語り手――心理学者ダニエル・カーネマンが呼ぶところの「思い出モード(remembering self)」に、人生の主導権を平然と渡してしまう。
だがもうひとりの自己――「今・ここモード(experiencing self)」はどうだろう?
静かで、主張しない。だが、世界のすべてを、フィルターなしで、素直な“生”として受け取る。
肌に触れる太陽、舌に広がるダークチョコレートの苦み、長い笑いの終わりに漏れる小さなため息。それらを「考えるな、感じろ」と迫ってくるヤンキー的な存在だ。
そしてたぶん、最も誠実な瞬間――「今」の本質を思い出させてくれる究極の場面とは、他の誰でもなく、自分ひとりで、静かに、そしてとてつもなく素朴なことにシコシコ没頭している時だ。そう、「自慰」という名の、私的な芸術に。
<自己の断絶──ひとつの人生、ふたつの人格>
カーネマンの指摘は一見シンプルだが、深い。
私たちは「ふたつの存在」として生きている。
「今・ここモード」と「思い出モード」。
ひとりは生き、もうひとりは編集する。
ふたりは滅多に意見が一致しない。
ひとりは“今”を求め、もうひとりは“物語”を要求する。
ひとりは“感じ”、もうひとりは“裁く”。
これには科学的な証拠もある。
ピーク・エンドの法則だ。
人は経験を平均ではなく、最高潮とラストだけで評価する。
3時間のコンサートの記憶?覚えているのは1曲のサビとラストソングだけだ。
じゃあ、ふとした“ひとりの快楽”はどうだろう?
記録されず、誰にも見られず、1時間後には忘れ去られるような刹那。
でもその一瞬は、紛れもなく「本物」だ。
記憶なんかじゃ再現できない、生の手触りがそこにある。
<記憶は信用できない>
なぜ私たちは、こんなにもバイアスまみれの編集者に、人生の舵を預けてしまうのか?
「思い出モード」は詐欺みたいなものだ。
誇張し、省略し、意味をでっちあげる。
月曜日を悲劇に仕立て上げたり、日没ひとつでバカンスを神話に変えたり。
“今を生きろ”って言葉がただのスローガンでない理由が、ここにある。
それは、ささやかな抵抗なのだ。
記憶でもなく、演出でもなく、評価でもなく。
「感覚」に身を委ねることは、現実を奪還する行為だ。
自分の追悼文を準備するのをやめて、ようやく真の意味で生きることが可能になる。
<孤独な福音──純粋な実在のために>
これはタブーだが真実だ。
自慰ほど、「今・ここモード」に誠実な行為はない。
誰のためでもない。
誰も見ていない。
インスタのフィルターもない。
記憶として飾る必要もない。
「俺のほうが気持ちいい」と競い合うことも(ふつうは)ない。
そこにあるのはただ、“経験する自己”。
嘘をつかず、言い訳もせず、ただ在るだけの時間。
この世界は何もかもが「かまってちゃん」になった。
朝食でさえSNSに載せる時代。
そんな中で自慰は、最後に残された「編集なき経験」の聖域なのだ。
だからこそ、多くの人がこう言う:
ありきたりなセックスより、
スピリチュアルな瞑想より、
自己啓発書より――
孤高の快楽のほうがずっとリアルだと。
君の身体は、君の頭よりも先に、“真実”を知っている。
<「今」を生きることは、現代への反逆である>
未来への遺産、成果、意味。
そんなことばかりにとらわれた社会では、
「今を生きること」は反逆的な行為ですらある。
記憶されたものより、今ここにある現実を。
物語より、脈打つ生を。
僕たちは「将来のために我慢しろ」と育てられてきた。
キャリア、恋愛、遊び。
だが未来は常に仮説であり、過去は常に歪んでいる。
今だけが、ありのままに生きている。
<生きる価値とは何か?>
反省や責任を捨てろと言うつもりはない。
だが、「よりよい物語」という幻想のために、今この瞬間の豊かさを犠牲にしては本末転倒だ。
物語は嘘をつく。
装飾し、切り貼りし、都合の悪い場面をカットしてくる。
だが――
舌の上のチョコレート。
喉の奥の笑い声。
部屋の静けさの中の、たったひとつのため息。
それらは、真実だ。
それは記憶ではなく、存在そのものだ。
その君は、本当の意味で人生を生きている。
<あとがき──なぜ「今」は未来の遺産よりも価値があるのか?>
21世紀に最もラディカルな行為とは何か?
それは不死を目指すことでも、完璧な自己ブランディングでもない。
こういうことかもしれない:
「じっと座り、「今・ここモード」で“リアル”を感じ、それが記憶に残るかどうかなど気にしない」こと。
そしてそれが、唯一の自由であり、唯一の現実なのかもしれない。