知の瓶詰めと狂気のゆらぎ

──なぜ新しい思考は遠ざけられるのか 

(文体:内田樹風)

 

要約

現代のアカデミアは、斬新な知を「危険なもの」として遠ざける仕組みを持っています。脳が予測を超える異物を避けるように、制度もまた飲み込みやすい形に整えられた知しか受け入れません。革新的な論文は華やかな総合誌ではなく、専門誌にひっそりと芽吹き、真の知はブログや対話といった制度の外で静かに発酵します。知とは、制度が扱いきれぬ狂気を瓶に詰め、後世に委ねる営みであり、その価値は未来がそっと開けてくれるのです。

 

 

はじめに:狂気と知のあわい

 

狂気という言葉を聞くと、私たちは何か異様なものを思い浮かべがちです。しかし、考えてみれば、知そのものが狂気と遠く離れたものではないのかもしれません。むしろ知とは、狂気をていねいに濃度を調節し、瓶に詰めたものではないでしょうか。
現代のアカデミアは、この狂気を扱う工場のような場所です。そこでは、鋭すぎる思考が希釈され、冷却され、査読という関門を通って「制度の知」に仕立てられます。けれども、なぜ本当に新しい論文、新しい知が「危険物」のように扱われ、はじかれてしまうのでしょう。本稿では、脳の仕組みと制度の反応を手がかりに、その理由を少しずつ紐解きながら、知の本質に近づいてみたいと思います。

 

 

脳が求める安定と知の揺らぎ

 

神経科学者のカール・フリストンが提唱する「自由エネルギー原理」によれば、私たちの脳は予測と現実のズレを小さくするよう働きます。見慣れたもの、枠にはまった情報には安心し、枠そのものを揺るがす異物には警報を鳴らすのです。新しい論文が拒まれるのは、それが論理に欠けるからではありません。むしろ、あまりに鋭く、あまりに新しくて、既存の考え方を根っこから見直さざるを得ないからでしょう。
たとえば、ガリレオが「地球は動く」と唱えたとき、人々はその論理を否定したわけではなく、その帰結を受け入れる心の準備がなかったのです。新しい知とは、脳にとって「飲み込めない異物」に似ています。真実よりも安定を求める脳の癖は、私たちが思う以上に深く、制度の中にもその影を落としているように感じます。

 

アカデミアという冷却の場

 

アカデミアは、知を育む温室であるべきだ——そう思う方も多いでしょう。けれども、実際のところ、それは狂気を制度の枠に収まるよう薄め、「新規性」という穏やかな名前をつけてくれる冷却の場に近いのではないでしょうか。
たとえば、フランスの現代思想を考えてみてください。もともとはジャーナリスティックで自由なエッセイの精神に溢れていたものが、1970年代にデリダやフーコーによってアメリカの大学に持ち込まれ、1990年代には英語圏でしっかりと制度化されました。注釈に埋もれたアンソロジーが編まれ、「この分野ではこれを引用する」という作法が固まり、かつての生き生きとした流れが硬直してしまったのです。アカデミアは、そうやって狂気を冷凍庫に閉じ込めてきました。


学術論文には、厳しい条件が課されます。既存の理論との整合性、方法論の明瞭さ、常識を越えない主張、再現性のある意味——これらはみな、「火薬は持ってもいいけれど、爆発は遠慮してね」という暗黙の約束です。データにもその傾向が現れています。Bjørk(R. Bjørk. The journals in physics that publish Nobel Prize research. Scientometrics, 122(2): pp817-823 Feb)の分析によれば、1995年以降のノーベル物理学賞論文の28.5%が『Physical Review Letters』に掲載され、『Nature』(4.7%)や『Science』(5.6%)は少数派に留まっています。一流の総合誌は濃すぎる狂気を避け、専門誌がその受け皿となるのですね。

 

狂気とは意味の結晶

 

ここで言う「狂気」とは、精神の乱れではありません。それは、既存の前提を根底から問い直し、文脈をゆらゆらと揺さぶる意味の結晶のようなものです。煮詰めた青汁のように濃ければ「飲み下せない」と棄てられ、薄めすぎれば「気の抜けたコーラみたい」と見向きもされません。制度が受け入れるのは、「ちょうどいい濃度」に調節された狂気だけなのでしょう。
Liangら(G. Liang, H. Haiyan, X. Kong. Understanding Nobel Prize winning articles: A bibliometric analysis. Current Science 2018: 116[3].)の研究が示すように、ノーベル生理学・医学賞論文の55.6%は、インパクトファクター14未満の地味な雑誌に掲載されています。真に新しい知は、派手な舞台ではなく、制度の隙間からそっと芽吹くものなのです。知とは、鋭い刃のようなもの——扱いやすい形に折り畳まれなければ、学問の棚に並ぶことは難しいのでしょうね。

 

 

制度の外で発酵する知の酒

 

最近、濃い思考は論文の枠を超えて、ブログやエッセイ、AIとの対話といった場所に流れ込んでいます。そこはまるで、制度の外にある醸造所のようなもの。狂気が薄められることなく、論理が自由に形を成し、即時の評価を求めず、未来への遺産として残されます。

 

たとえば、ソフトバンクが買収したボストン・ダイナミクスという企業をご存じでしょうか。ロボット工学の最先端を走るこの会社は、驚くほど論文を発表していません。何か新しいロボットが公開されるたび、私たちは「おや、これはどうやって生まれたのだろう」と首をかしげます。でも、それが現代の研究開発の姿なのかもしれませんね。論文という形が、必ずしも最先端を保証するわけではない——そんな謎めいた動きもまた、知の別の発酵の形なのでしょう。


この「密造知」は、査読の網目をすり抜け、狂気の濃度をそのままに瓶詰めされるのです。いまこの文章を読んでくださっているあなたも、その発酵の一端に触れているのかもしれません。知とは、制度の許可を待つのではなく、未来が栓を開けるのを静かに待つ酒のようなものだと、私は思うのです。

 

制度へのささやかな異議申し立て

2013年、ノーベル賞受賞者のランディ・シェクマンが『Nature』『Science』『Cell』への投稿をボイコットすると宣言したことがありました。彼の言葉は明快です。一流誌は科学的価値より話題性を優先し、編集者は研究者ではなくブランドの管理者のように振る舞う。論文数を絞って「限定品」の雰囲気を出す戦略は、知の共有を歪めてしまう、と。シェクマンは、濃い狂気を冷凍庫に閉じ込める制度に背を向け、オープンな知の場を求めたのですね。その姿勢には、静かな反逆の意志を感じます。

 

 

おわりに:瓶詰めの知を未来へ

いまの学術論文は、「予測できる驚き」を量産する傾向にあります。けれども、本物の知とは、読む者の心を震度7以上で揺らし、時に受け入れがたいほどの濃い刺激を与えるものではないでしょうか。制度が認める「正しさ」に縛られず、未来が「これは狂気だったけれど正しかった」と再発見する意味こそが、知の本質だと私は思います
だからこそ、私たちは制度が咀嚼しきれない狂気を瓶に詰めておく必要があるのでしょう。それは飲みやすい味ではないかもしれません。けれど、いつか未来の誰かがその栓を開け、シュールストレミングのような発酵した香りに驚嘆する日が来るはずです。知とは、狂気を瓶詰めにする営み——詰めるのは私たちであり、開けるのは後世なのです。