自由意志は存在しない---すべての人間は操り人形である
私たちが何かを決めるとき、私たちは「自分の自由な意志」で決めていると思っている。
何を当たり前のことを言っているんだ、と思われるかもしれない。
しかし、「じつは自由な意志など存在しませんでした♪」という、とんでもないことが脳の研究により分かってしまった。
つまり、「私たちが〇〇しよう」と思うよりも先に、無意識が「〇〇しよう」と決めてしまっている、ということなのだ(これは脳における「準備電位」の測定などにより明らかとなった)。
困ったことに、「〇〇しよう」という意志が(無意識の中で生まれてから)意識にのぼる直前まで、私たちは意志の存在に気づくことができない。
だからこそ「自分の意志で〇〇しようと決めた」と私たちは錯覚するのである。
こんな話を聞いても「それがどうした」と涼しい顔をされている方がいらっしゃるかもしれない。しかし、この事実を認めてしまうことは、じつは社会にとって大問題なのだ。
たとえばモノを盗んだ泥棒が悪人として刑務所に入れられる例を考えてみよう。
そもそも、この泥棒はなぜ犯罪者として裁かれたのだろうか?
それは「自分の意志で」モノを盗んだからだ、とされる。
そのため、たとえば「泥棒の脳ミソ」が誰かにリモコンで操られていたとしたら、「本人の意志でモノを盗んだ」わけではないのだから、罪に問うことは難しくなる。
つまり「人間に自由意志がない」とは、要するに「人間は例外なく、無意識にリモコン操作される操り人形でした」という話なのだ。
だから自由意志の不在は、社会的には無茶苦茶ヤバい話だと言える。
ちなみにアメリカの最高裁判所にいたっては、”自由意志こそが「法体系の普遍的かつ恒久的な根拠」”とまで明言してしまっている。「自由意志はありませんでした。てへ」という話になれば、そもそも人を裁く根拠がなくなり、社会は『マッド・マックス』や『北斗の拳』みたいな混沌に吞み込まれるんじゃんいか、と不安になってくる。
「自由意志の不在」が世の中でほとんど語られることがないのも、無理なからぬ話である。
しかし、人類は永遠にこの事実から目をそむけ続けられるだろうか?私には、そうは思えない。
「自由意志が存在しない」ことを前提に設計された未来社会がいずれ来るとしたら、それはどんなものだろうか?
私は、以下の3つの可能性が考えられると思う。
1.犯罪者は(自由意志ではなく)「結果」で裁かれるようになる。犯罪者を野放しにしておくわけにはいかないから、犯罪者が社会から隔離されることは間違いない。そのとき、隔離の根拠は「自由意志」ではなく「やってしまったことの結果」とならざるを得ないだろう。これなら一応、社会の秩序は保たれる。簡単にいえば「お前のせいじゃないけど、お前がいるとみんなが迷惑するから、悪いけどブタ箱に入っててくれや」という話になるわけだ。
2.人々が自分に甘くなる。たとえば自分が何かに失敗しても、「俺に意志はないもん。無意識のせいだもん♪」といった具合に「無意識」に責任転嫁できるようになる。自分のせいだという感覚が希薄になれば世の中から鬱病などは激減するだろうから、これは必ずしも悪いことばかりではあるまい。
3.人々が他人にも甘くなる。たとえば他人に嫌なことをされても「あいつもまた、無意識に操られているんだから、仕方ないよな」と考えられるようになるため他人に対してあまり腹が立たなくなる。また、人生の成功・失敗は本人のせいではないことになるため、ベーシックインカムなど富の再配分に対する反対意見も生じにくくなる。ようするに、「人生に失敗した人」イコール「運が悪かった人」という話になるのだ。
もちろん、これらの予測の当否は未来にならなければ分からないが、いずれにせよ未来の社会は最終的には「自由意志の不在」を前提に設計せざるを得なくなるのではないかと私は思っている。地動説や進化論でさえ、いまや社会に受け入れられているのだから、あり得ない話ではないだろう。
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