魚は痛みを感じるか?
声なき者たちに対する倫理

私は魚を食べるのが好きだ。煮てもうまい也、焼いてもうまい也。もちろん刺身もうまい也。しかし、私のような魚好きのせいで、世界的に魚類の減少が深刻化しているようだ。中でもクロマグロやウナギにいたっては絶滅の危機に瀕しているという。
そこで私は、魚に対する食欲を自制する方法を考えてみた。その結果、「魚の痛みを想像する」のが有効ではないかという結論に至った。
釣り上げられた魚は、ぴちぴち跳ねたり口をぱくぱくさせたりするわけだが、実はかれらは、とてつもない激痛を感じているのではないか?もし声を出すことができたら、「痛イ!苦シイ!早ク殺セ!」と叫ぶのではなかろうか。
ふざけた妄想だと思われるかもしれないが、これは必ずしも荒唐無稽とは言い切れない。
たとえば、ある研究によれば魚は、侵害刺激を受けると脈拍や呼吸を高め、ストレスホルモンを産生することがわかっている。さらに注意力が散漫になり、食欲も減退する。驚くべきことに、これらの症状には「ヒトの」鎮痛薬が効く。
また魚の脳は、かつて考えられていたよりも、はるかに人間の脳と似ていること[1]や、高度な認知能力があることも分かってきている[2,3]。
私たちが「痛い!」と感じたときの生々しい感覚(痛みのクオリア)は、魚類から人類に至るまで、ほとんど一緒なのではないだろうか。脳が似ているのなら、そこから生じる感覚(クオリア)が似ていないほうが、むしろ不思議だからである。
私たちが魚に冷淡なのは、魚の外見が私たちと似ていない上に、魚が声を出せないからだろう。
ちなみに明治時代の小説家、斎藤緑雨(1868-1904年)は次の言葉を残している。
<刀を鳥に加へて鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。
聲(こえ)ある者は幸福也、叫ぶ者は幸福也、泣得るものは幸福也>
次にクロマグロやウナギが食べたくなったときにはこの事を考えてみてはどうだろうか。食欲が爆下がりすること請け合いである。
脚注
[1]
かつて支配的だったマクリーン仮説によれば、「単純な魚の脳に、少しずつ新しい脳が付け加わり、哺乳類の最も複雑な脳ができた」ことになっている。しかし、近年の研究により、魚類の段階ですでに大脳・間脳・中脳・小脳・橋・延髄と、脳は完成していることがあきらかになっている。そして、この6つの脳の構造は、魚からヒトに至るまで脊椎動物のなかで共通している。つまり、ヒトの脳の構造と魚類の脳構造は同じなのである。また、「哺乳類にある大脳新皮質は魚類にも鳥類にもない。だから哺乳類になって付け加わったのではないのか」、と反論する人もいるだろう。たしかに哺乳類の大脳新皮質は6層の構造をし、大脳の表面を覆っているのだが、鳥類ではその部分が層ではなく大脳の中に固まりとして存在している。この部分は、大脳新皮質と起源は同じであり、相同なのだ。さらに最近になり、この大脳新皮質に相同な固まりが、魚類の大脳にも存在することがわかってきた。
[2]
脊椎動物の5綱それぞれの脳に即して神経核と神経領域を調べると、魚から哺乳類まで大きな違いがないどころか、大変よく似ている。このことから、動物が闘争する際に攻撃を続けるか引き下がるかという意思決定に関与する神経回路が、魚類から哺乳類に至るまで保存されていることがわかる。 魚からヒトまで共通する脳の構造は、魚の知性が高くても不思議でないことを示している。
[3]
魚も鏡像自己認知できることも、実験的に確認されている。魚の鏡像自己認知は、従来の西洋哲学や宗教など、いわば人間中心主義の前提をひっくり返しかねない発見である。
参考図書
・『脳はなにげに不公平』池谷裕二著
・『魚が食べられなくなる日』勝川俊雄著
・『魚にも自分がわかる』幸田正典著