Elementor #1416

自由意志は存在しない(2025年 改訂版)

<これまでの人生を振り返ると、自分自身の力でなしえたことなど、ほとんどない気がする>

ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』より


私たちは、自分の意思で行動している。そう思っている。これは嘘である。あなたに意思などない

これは実験的に確かめられている。こんな実験だ [脚注1]


それぞれにボタンがついたレバーを両手にもつ。左右好きな方のボタンを、自分の意思で、自由に、好きなタイミングで押す。そのときの脳の活動を測定する。


この実験の結果、「押したい」と感じる前に、脳が押す準備を始めていることがわかった。つまり、無意識が押すと決めたあとで、ようやく「押したい」という感情が湧き上がる。


そればかりではない。ボタンを押したくなる数秒前には、左右どちらの手で押そうとするか、本人よりも先に知ることさえできるの [脚注2]


ここから、意識に現れる「自由な心」は、幻であることが分かる。意思は、脳の活動の「結果」であって「原因」ではないのだ。


人々は、この結果を容易には受け入れられなかった。そして様々な逃げ道を模索してきた。「いや、無意識の決定を否定する余地はあるんだよ(自由否定)」とか、「複雑な行動に関しては成立しないかもよ」とか「実際に俺は自由意志を感じているじゃん」などだ [脚注3-5]。しかし、いずれも決定的な反論にはならなかった。


こうした実験結果は、考えてみれば、不思議ではない。なぜなら、脳がある活動をしたということは、その活動を生み出す元となった活動がどこかにあったはずだからだ。無からは何も生まれない。


ここで苦し紛れに宗教を持ち出したくなる人もいるだろう。意思は神が与える、というわけだ。しかし、それなら私の「自由」意志でないことになる。


けっきょく人はみな、操り人形なのだ。なにひとつ自分で決めていないし、決められないのである。


————————————————————


脚注


[1]

Libet B et al. Time of conscious intention to act in relation to onset of cerebral activity (readiness-potential): The unconscious initiation of a freely voluntary act. Brain 106:623-642, 1983.  

Libetらの実験では「k」とか「d」などの複数の文字が0.5秒間隔で次から次へとスクリーンに同時に映される。 被験者は、左右どちらかのボタンを押すことで、いずれかの文字を選ぶ。

さらに被験者はそれを決めた瞬間を覚えておき、選んだアルファベットを申告する。これにより意図が生じた時点を判定した。


[2]

Soon CS et al. Unconscious determinants of free decisions in the human brain. Nat Neurosci 11:543-545, 2008.

この論文では、被験者が左右どちらのボタンを押すか自由に決める課題において、fMRIを使用して脳活動を記録した。その結果、次のようなことが示された:

1.意図が発生する直前に、SMASupplementary Motor Area, 補足運動野)で準備活動が始まっている。

2.前頭前皮質 (Prefrontal Cortex) の左側部と中央部の活動が、被験者が申告した意図の少なくとも7秒前から観察された。

この活動パターンを基に、研究者は被験者が左右どちらのボタンを押すかを予測できた(左側部の活動 → 被験者が左のボタンを押す傾向がある。;中央部の活動 → 被験者が右のボタンを押す傾向がある)。

ちなみに「たとえば野球ではバットを降るかどうかを判断するのに7秒もかけていられないではないか」と思われる人がいるかもしれない。この場合にボールを打てるのは、無意識、つまり脊髄反射みたいなものである。「体が先で意志が後」だから、ボールが打てる。


[3]

これを「自由否定」という。つまり無意識の決定であっても、土壇場で自らの意志でキャンセルできるという考え方だ。しかし、これは脚注2の実験により否定される。

そもそも、このドタキャン自体が一種の意思である以上、そこにも準備期間が必要なはずである。そう考えると、自由否定という考え方はおかしいと言わざるをえない。


[4]

自由意志の否定は単純な行動に関して成立しても、複雑な行動に関しては成立しないのではないかという反論がある。しかし、 複雑な行動は単純な行動の集合や階層として構成されている。単純な行動において自由意志が成り立たないならば、それを積み重ねて得られる複雑な行動でも自由意志が成り立たないと考えるのが自然である。


[5]

自由意志の感覚があることと、それが実在することは別の問題である。主観的な感覚が錯覚にすぎないという事実を無視することは、科学的ではないし、合理的でもない。「お化けの存在を信じている人にとって、お化けは実在している」という話と同じだ。

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