勉強とは死ぬことである

突然ですが、5歳のときのあなたは、どのようにものを考え、どんなことが好きな子供だったでしょうか?現在のあなたとは、まったく違ったはずです。つまり、5歳のときのあなたと、現在のあなたは「別人」なのです。これは、別の言い方をすれば、5歳のときのあなたは「死んだ」ということなのです。

私たちは、多かれ少なかれ、自分が気づかないうちにどんどん変化し、別人になっていきます。これはいわば、毎日「死んでいる」ことと同じです。私たちはすなわち、毎日命日をむかえ、毎日誕生日をむかえているのです。

すなわち、「死」には2種類あるのです。

第1の死は、人生の最後に訪れる一度のイベントとしての死で、これは誰もが普通にイメージする死です。

第2の死は、私が先ほど言及した、毎日の変化の結果として起きる「死」です。いわば、人は毎日、死に続けているのです。この第2の死が世間で語られない理由は、私たちの意識が「自分は変わらない」という錯覚を生み出しているからです。充実した人生とは、まさにこの「第2の死」を日々実感することだと私は考えます。

ここでいったん、話題を変えます。

勉強とは、パソコンに喩えるなら、アプリやソフトを次々とダウンロードしていくようなイメージでとらえられているのが普通だと思います。しかし私の考えは異なります。勉強とは、OSそのものを書きかえてしまうことです。すなわち、学ぶことにより私たちの思考は、より速く、より正確になっていくのです。しかも、コンピュータとは異なり、学ぶことにより私たちの脳は、より創造的にさえなっていくのです。これは、現代のような高度な知識社会を生き抜く上で、重要な論点です。

上記のように、勉強はOSそのものを書きかえてしまうわけですから、これほど大きな変化を人にもたらすものはないでしょう。すなわち、前述の「第2の死」を加速させる最大のものが勉強なのです。その意味において、勉強とは、じつは「自殺」の一種だともいえるのです(生きるのがツラい人は、勉強という形での「自殺」をすすめます。本当に死んだらダメです)。同様の理由から、教育とは本質的に「殺人」であるといえます。教育を受けてOSが変わったあなたは、もはや別人です。それまでの自分は死ぬのです。死ななければならないのです。

親にとって、かわいいわが子が変わってしまうのは寂しいことですが、同時に、喜ばしい成長でもあるはずです。子供たちは勉強によって「第2の死」を日々続けなければなりません。それなら、教師の役割は、生徒の「暗殺」だとも言えるでしょう。

かつて『暗殺教室』という漫画がありました。その漫画において、生徒たちは先生を殺そうとします。しかし、実際の学校ではその逆、すなわち、先生が、生徒たちを気づかないうちに「暗殺」してゆくのです。生徒たちの「無知の殻」を爆砕することで、過去の生徒は死に、成長した生徒として新しく生まれ変わるのです。この意味において、よい教師とはプロの「殺し屋」でなくてはならず、すべての教室は「暗殺教室」でなければならないのです。子供たちだけではありません。ものすごい速さで変化してゆく現代の世界において、私たち大人もまた、勉強により死に続け、生まれ変わり続ける必要があるのです。

仏教などでは、生き物が死んでは生まれ変わる「輪廻転生」が説かれます。私は、そのような輪廻転生は信じません。しかし、それとは別の輪廻転生を信じます。それは、私たちが生きている、この人生において、何かを学び続け、死と再生のドラマを繰り返すことです。私は、これこそが真の輪廻転生だと思います。このような輪廻にこそ、私たち生きる意味、そして希望があるのではないでしょうか。

まとめ

1.人間は毎日、気づかないうちに死と再生をくり返しながら別人に成長していく。

2.「学び」は脳のOSを書きかえるため、劇的な形で「死と再生」を引き起こす

3.「学び」に駆動された輪廻転生にこそ、私たちが生きる意味と希望がある