緑の燃焼—映画『逆襲のシャア』ラストシーンの考察
『逆襲のシャア』のラストは、奇跡として語られすぎている。
アクシズが落ちる。アムロが押す。兵士たちも押す。サイコフレームが共鳴する。緑色の光が広がる。アクシズは地球から離れる。
そして、アムロとシャアは消える。
多くの人は、これを「人の心の光」と読む。ニュータイプの奇跡。敵味方を超えた善意。人類はまだ捨てたものではない、という救済の物語。
だが、それは少し綺麗すぎる。
アクシズを押し返すエネルギーは、どこから来たのか。
モビルスーツ数機の推力でどうにかなる質量ではない。ならば、あの場面で起きたのは、奇跡ではなく変換だったのではないか。
サイコフレームは祈りを受信したのではない。
祈りを燃料化した。
それは祈りのアンテナではない。
精神—物理変換炉である。
ここで、ナナイの台詞が不気味に響く。
「大佐の命が吸われていきます」
危ない、ではない。反応が消える、でもない。命が吸われる。
命が移動している。何かに徴収されている。シャアの生命が、サイコフレーム現象に取り込まれている。
だが、シャアはアクシズを押し返したかったわけではない。落としたかったのだ。
だから、シャアの「意思」が押し返す力になったわけではない。シャアの意思は、最後まで落下に向いていた。地球に向いていた。破局に向いていた。
使われたのは、意思ではない。
命である。
シャアは協力したのではない。
使われた。
シャアは自分の意思で人類を殺そうとした。だが、その命はアムロの意思によって、人類救済の燃料に転用された。
この逆転は残酷だ。
これは『チェンソーマン』のマキマの能力に近い。本人が望むかどうかは関係ない。接続されていれば、使われる。命は、同意ではなく、代償として徴収される。
シャアは、あの場で最もアムロに強く接続された存在だった。宿敵。鏡像。ララァをめぐる亡霊の共有者。ニュータイプ思想をめぐる対立者。そして、アクシズ落としという破局の原因そのもの。
サイコフレームは、その濃すぎる接続を利用した。
アムロはシャアを説得したのではない。改心させたのでもない。
最後に起きたことは、もっと冷たい。
アムロは、シャアを燃料として捧げた。
ここで「無理心中」という言葉が浮かぶ。
ただし、正確には、シャアは人類と心中しようとしたわけではない。
シャアは死ぬつもりではなかった。アクシズを落とし、地球を傷つけ、地球に住む人間たちを強制的に宇宙へ上げようとした。
破局による進化。
暴力による覚醒。
地球を壊さなければ、人類は変わらない。
これは心中ではない。政治思想である。あるいは、人類を材料にした歴史改造である。
シャアは人類を巻き込んで死のうとしたのではない。人類を巻き込んで、自分の思想を実現しようとした。
では、アムロは何をしたのか。
アムロは、その巨大な歴史改造を止めた。だが、ただ止めたのではない。
変換した。
シャアは人類を材料にしようとした。
アムロはシャアを材料にした。
シャアは地球全体を炉心に投げ込もうとした。アムロはその炉心を、自分とシャアだけに縮小した。
人類全体ではない。
俺とお前で終わらせる。
ここで初めて、無理心中が生じる。
シャアの計画は無理心中ではなかった。アムロが、それを無理心中に変えたのだ。
アムロはシャアを遠くから撃ち落とさなかった。最後には抱え込んだ。
救うためではない。
逃がさないためである。
その瞬間、アムロは聖人ではなくなる。救済者ではない。処刑人だ。
だが、ただの処刑人でもない。
シャアは人類を手段化した。アムロはシャアを手段化した。そして、アムロは自分もそこから逃げなかった。
聖人ではない。
共犯者だ。
二人は、同じ炉心へ落ちた。
そのとき、緑色の光が出る。
高校化学で、炎色反応というものを習う。金属を炎に入れると、元素ごとに特有の色が出る。銅やバリウムは緑系に光る。
色は美しい。
だが、それはただの燃焼だ。
サイコフレームの緑も、それに似ていたのではないか。
あれは希望の緑ではない。少なくとも、希望だけの緑ではない。
人間の意思。恐怖。執着。生命。後悔。憎悪。愛着。未練。破局願望。救済欲。支配欲。
そして、アムロとシャアの長すぎる因縁。
それらが炉心で励起される。
燃える。
発光する。
その固有スペクトルが、あの緑だった。
つまり、あの光は人間精神の炎色反応である。
「人の心の光」という言葉は、美しく聞こえる。だが、この読みでは違う。
人の心は、光ったのではない。
燃焼したのだ。
アムロとシャアは、祈ったから消えたのではない。
燃えたから消えた。
この読みは、富野作品の世界観と合う。
富野作品において、人の思念は単純な救済原理ではない。ララァは死後もアムロとシャアを呪縛する。カミーユは他者の思念を受けすぎて壊れる。ニュータイプ的感応は、相互理解であると同時に、暴力的な接続でもある。
「わかり合う」とは、優しいことばかりではない。他者の内部に踏み込むことであり、他者に踏み込まれることでもある。
救いにもなる。損傷にもなる。
だから、サイコフレームが人の心を増幅したとき、そこに現れるのは清らかな善意だけではない。
きれいなものも流れ込む。汚いものも流れ込む。希望も流れ込む。執着も流れ込む。愛も流れ込む。憎悪も流れ込む。
サイコフレームは、それを選別しない。
ただ吸う。
ただ燃やす。
ただ光に変える。
ここに、補助線を引くこともできる。
この生贄構造は、作品の外側にも反復しているのではないか。
富野由悠季はガンダムを作った。だがガンダムは、富野の意図を超えて巨大な産業になった。商品化される。シリーズ化される。神話化される。消費され続ける。富野は創造者である。だが同時に、自分が作った装置に吸われる存在でもあった。
シャアは、アクシズ落としを起こした張本人でありながら、最後にはアクシズを押し返す燃料にされた。富野もまた、ガンダムを生んだ張本人でありながら、ガンダム産業を光らせ続ける燃料にされた。
もちろん、これは断定できない。だが、完全な妄想として切り捨てることもできない。
ガンダムという産業自体が、一種のサイコフレームだったのかもしれない。
人の思念を集める。欲望を増幅する。商品に変える。神話に変える。創作者の情念まで燃料にする。
サイコフレームは、画面の中だけにあるのではない。
それでも、主軸は変わらない。
サイコフレームは、二人の命と因縁を燃料にして、アクシズを押し返した。
その燃焼色が緑だった。
だから、あのラストの光は、希望の象徴ではない。
希望の色に偽装した、犠牲の燃焼色である。
アムロとシャアは、普通に死んだのではない。戦いの終わりに消えたのでもない。
二人の戦いそのものが、燃料として使い切られた。
だから、彼らは二度と帰ってこなかった。
アムロとシャアは、死んだのではない。
消えたのでもない。
炉心に落ち、アクシズを押し返す物理的エネルギーへと変換されたのである。
その色が、緑だった。