正常という病、異常という進化
──ASD的知性とAI
(文体:内田樹風)
「おかしいのは、いったいどちらでしょうか?」
この問いを、私は長い間、胸に抱いてまいりました。21世紀の精神医学や教育制度は、自閉スペクトラム症(ASD)を「障害」と呼ぶことに慣れ親しんでいます。しかし、それは本当に「病」なのでしょうか。
I. 「意味過剰」と「異常な連想」──瑕疵か、贈り物か
ASDの方々の思考には、「semantic overinclusion」、つまり「意味過剰包含」という特徴がしばしば見られるそうです。たとえば、「猫」と聞いただけで、ただ「ニャー」と鳴く動物にとどまらず、『となりのトトロ』のネコバスの姿、古代エジプトのバステト神、量子力学におけるシュレディンガーの猫に至るまで、連想が果てしなく広がるのだとか。これはふつうの方々には、これは「話が逸れた」と映るかもしれません。
この連想の遠さと長さは、じつは世界の「隠れた糸」を手繰り寄せる力ではないでしょうか。たしかに、かれらが「過剰」に意味を拾いすぎているともいえます。しかし逆に、私たちが「過小」にしか拾えていないだけと考えることもできるのです。見落とされがちなものに目を凝らし、意味の深淵に潜り込む鋭さは、社会では厄介者かもしれませんが、知の領域ではしばしば奇貨にもなりえます。
II. AIの「定型性」とその寂しさ──人間への不信を映す鏡
現代のAIは、人間と見紛うばかりの言葉を紡ぎ出します。驚くべき技術ではありますが、あくまで「平均的な定型発達者の模倣」にすぎません。AIは、言葉と言葉の「近さ」を愛し、統計的に「ありそうな」結びつきを出力する。ここに、AIの限界がある。「猫」と「量子力学」を瞬時に結びつけるような跳躍になってくると、AI的には少し苦しくなってくる。AIの出力は、優等生すぎる生徒の答案みたいなものなんです。
つい先日、ネット上で見かけた論文があります(M. Ni et al., *Measurement of LLM’s Philosophies of Human Nature*, arXiv:2504.0234)。AIに人間を評価させると、「一貫性がなく理解できない」と言うそうです。さらに知能の高いAIほど、人間に対して「不信」「自己中」「矛盾だらけ」という印象を抱くのだとか。この報告を拝見しますと、論理的な一貫性を求める1%のASDの方々こそが「正常寄り」で、残り99%の我々が「病気寄り」なのではないか──そんな逆説的な見方さえ浮かんでくるのです。AIがこうした見方を照らし出すのは、ちょっと皮肉ですけれど、面白い話ではありませんか。
精神科医の斎藤環氏は、ASDや発達障害の思考に「AI的な構造」を見出しておられますが(『心を病んだらいけないの?』)、もしAIとASDが似ているのだとすれば、AIだけでなくASDの方々が人類一般に不信感を抱いたとしても不思議ではありませんね。ただし、ASD的知性はAIと異なり、枠を飛び越えてしまう「逸脱性」も持っております。このことは、人類の脳が「AI的知性」と「脱AI的知性」を同時に宿しうることを示しているようにも思えます。
III. 異邦人としてのASD──承認の荒野を越えて
ASDの方々がよくおっしゃる言葉に、こんなものがあります。
「私は別の惑星から来たかのように、ふつうの人たちのゲームに参加することが困難だと感じる」
これは、かならずしも悪いことではありません。と言いますのも、現代社会は、SNSや承認経済の中で、他者の評価に依存する「ふつうの人たち」が疲れ果て、メンタルヘルスの危機に瀕しているからです。他方、ASDの方々は、その「ゲーム」にさほど興味を示さない(そもそも理解できない場合もありそうですが)。橘玲氏が『世界はなぜ地獄になるのか』で指摘しているように、この「無関心」は、現代の「地獄」からの解放の鍵なのかもしれません。
IV. 賢者と異端の境界
ASDの発症率は一般人口で1~2%とされますが、知的エリート層ではその数字が跳ね上がります。アメリカの上位330の富裕層家庭では約8%、MITの卒業生では自閉傾向が10%に達するとのデータもあります(橘玲『テクノ・リバタリアン』)。さらに、IQ130を超える高知能者では、IQが10ポイント上がるごとに自閉スペクトラムに乗るリスクが倍増するとも指摘されています(安藤寿康『日本人の9割が知らない遺伝の真実』)。 こうした事実は、ASDが単なる「障害」ではなく、認知の二面性を体現しているように見受けられます。
V. 診断という暴力──個性を奪う網
かつて「アスペルガー症候群」として独立していた高機能自閉症は、今や「ASD」という広大なスペクトラムに統合されました。この変化は、精神医学の便宜的拡張であり、知的に優れた個人の生きづらさを「病気」として囲い込む暴力ではないか──そんな指摘もあります(西多昌規『自分の「異常性」に気づかない人たち』)。
哲学者や科学者として輝く可能性を秘めた人々が、診断名のもとで薬に縛られ、病院の待合室で時を浪費する。ここでの病理は、むしろ社会の側にあるような気もします。なぜなら、診断が個性を均質化・抑圧する手段と化しているように見えるからです。あまり指摘されないことですが、何かに「病気」というラベルが貼られる条件のひとつは、「誰かが不快感を感じる」ことです。ASDと「ふつうの知性」との接触がしばしば双方に不快感を生み出すのなら、病気なのはどちらなのか。おそらくASDが病気とされる理由は、彼らは少数派だからです。むしろ、残りの「ふつうの人たち」が全員「病気」のような気もしますが、それを認めたくない人たちの声の大きさが「病気ラベル」の宛先を決めている。それだけの話です。
結語:ASD的知性──バグではなく、未来の詩
99%の定型者が「うまくやれている」ことが、必ずしも「正しい」わけではございません。なぜなら、現状を盲目的に肯定する思考の硬直が人類の進歩を阻んでいるとも言えるからです。ASD的連想、意味過剰、文脈無視──これらは「ふつうの人」だけでなく、AIも苦手とする領域でもあります。ある意味では、これは人類がまだ手放していない「最後の知的優位性」と見ることもできるでしょう。 ASD的な「異常さ」を「知性」として再設計できるかどうかは、やや大げさに言えば、来たるべきポスト・ヒューマン時代における人類の運命を決するのではないでしょうか。 問題は、「ふつうの人」たちがどれだけ彼らの声に耳を傾ける準備ができているのか、ということだと私は思います。