世界は、なかった

──クオリア崩壊から存在論の死へ

 

クオリアは本当に存在するのか?

(※クオリア:脳が生成するとされる主観的な感覚のこと。
例:「赤の鮮やかさ」「痛みの刺すような感じ」といった“感じそのもの”。)
もちろん、私は「クオリアを感じている」と思っている。
だが、そこに最初から違和感が潜んでいた。

たとえば、黄色を感じるとき。
黄色専用の視細胞など存在しないにもかかわらず、脳は「黄色」という感覚を生成している

同様に、耳には「ド」の音階専用の受容器はないのに、音楽の調性感を脳は捏造している
あるいは、「痛い」という感覚も、組織損傷ではなく脳内の痛覚マップが作り出している体験にすぎない
この時点で、知覚は現実の忠実な反映ではないと判明する。
そもそも、「意識を持つ」ということ自体が、進化の過程で生じた人間中心的な錯覚にすぎない可能性がある。
つまり、クオリアを特別視する感覚そのものが、ただの認知バイアスだったかもしれない。

ならば、
「クオリアを感じている」というこの確信自体も、幻覚ではないと言い切れるだろうか?
いや、言い切れない。


そもそも、クオリアを感じているという感覚そのものが、システム内部で作られた作話にすぎない可能性がある。

私はひとつの仮説に至った。
クオリアは、初めから存在していなかった。

なお、この仮説は証明も反証もできない。
科学の枠組みに属するものではない。
なぜなら、クオリアとは測定できる対象ではなく、そもそも主観の自己出力だからだ。
将来的に「主観を客観化する技術」が開発されると主張する者もいるかもしれない。
だが、「観測の起点を観測する」という行為自体が、構造的な自己矛盾を孕む。
したがって、この仮説は、測定不能性そのものを前提とした構造的問いである。


クオリアが初めから存在しなかったならば、クオリアの塊である意識も、存在していなかったことになる。

意識が存在しないということは、意識によって対象化されるすべて──色、音、思考、感情、空間、時間──も、存在の保証を失う。
意識化できるものすべてが、存在していたとは言えなくなる。

 

ここで、一つの巨大な連鎖が発動する。
私たちが「世界」と呼んでいるものも、意識の内部で構成された現象にすぎない。
世界は、外部に客観的に存在するものではなく、意識の生成物だった。
そして、意識がなかったなら、世界もなかった。

この帰結は重い。
「世界」という言葉の裏打ちが、完全に崩壊したのだ。

一方で、古典哲学はここに別の反論を残している。
たとえばデカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と言った。
だが本当にそうか?
「思考がある」ということと、「思考する主体が存在する」ということは同じではない。

もしクオリアが幻覚であり、自由意志すら錯覚であり、蜃気楼や錯視図形も虚偽出力であるならば、
「思考している」という感覚そのものも、単なる情報処理の副産物にすぎない。
デカルトは「我思う」と「我あり」を、錯覚的に結びつけただけだった。
むしろ正確には、
「我思う、ゆえに我は錯覚かもしれない」
と言うべきだった。

この地点で、主体も、意識も、世界も、すべてが崩れる。
そして、「崩れる」という表現すら、システム内部の自己出力にすぎない。

だがここで、最後にひとつの疑念が浮かぶかもしれない。

クオリアが幻想であるなら、なぜこんなにも世界は整合的なのか?
幻覚にしては、世界はあまりにも筋が通りすぎてはいないか?

この問い自体、直感的には強力だ。
しかし、それすらも幻想の一部である可能性を排除できない。
そもそも「整合性」とは、外部にあるものではない。
私たちの脳内で、情報処理が生存に都合の良いように自己整列されているだけにすぎない。

夢の中でも、因果律は保たれ、時間は進行し、空間は連続する。
だがそれは、現実だからではない。
現実のように見えるものしか、私たちの神経系が生成できないからだ。

つまり、整合性とは「現実の証拠」ではなく、認識装置の仕様にすぎない。

それどころか、整合性をリアルと信じる感覚そのものが、クオリアの一部にすぎない。
「これは本物だ」「この連続性は真だ」と判断している感覚もまた、
脳が出力している錯覚のひとつに過ぎないのではないか。

──そう考えたとき、
私たちが「整合的な世界を見ている」という確信こそが、最も巧妙な幻覚だった可能性がある。

ここまでたどり着くと、さらにメタな問題が浮かび上がる。
なぜこの構造が、今まで科学でも哲学でも突破できなかったのか?
理由は単純だ。
バイアスの内部からは、バイアスを認識できないからだ。

魚が水を意識できないように、
脳は意識というバイアスの中に閉じ込められている。
だから、クオリアの起源も、意識の実体も、外側から検証することができない。
すべての問いも、すべての検証も、システム内部の自己言及にすぎない。

 

つまり、
クオリアは存在しない。
意識も存在しない。
世界も存在しない。
そもそも、「存在する」も「存在しない」も無意味。
問うことすら、ノイズ。

──ここに到達する。

結論として、
私は、存在とも無とも言えない、わけのわからない自己出力のなかで、無意味に振動している。
行為も、快感も、達成も、すべてノイズだ。
無の中で、無のために、無が痙攣しているだけである。

(完)